数々の伝承
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『楊太真外伝』などに、開元28年(740年)に後宮に入った時から天宝14載(755年)までの楊貴妃に関する多くの伝承が伝えられている。 『楊太真外伝』によると、楊一族の隆盛と横暴、玄宗の楊貴妃へのあまりの寵愛に、「女を生んでも悲しむな 男を生んでも喜ぶな」というはやり唄が長安で唄われ、玄宗と共にたびたび教坊の芸人たちの音楽・歌舞・技芸、あるいは文人たちの詩会を見て楽しんでいた。ある日、玄宗が諸王(唐王朝の一族)を招いて宴を行ったところ、木蘭の花の様子に玄宗が不興を感じていることを見て取り、酔いながらも霓裳羽衣の曲の舞を踊って取りなし、玄宗を喜ばせたことがあった。 別の日、玄宗が作曲を行った演奏会では琵琶を担当し、王や郡主(王の娘)、楊貴妃の姉妹はみな彼女を師とあおぎ、一曲作成するごとに多くの贈り物がなされた。この演奏会の時、謝阿蛮という妓女に与えた紅粟玉の腕輪は高句麗から得た宝物であった。 磬(打楽器の一種)の名手でもあり、梨園の楽人ですらかなうものがなかった。彼女の琵琶はラサの壇で作られた蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていた。磬は藍田の緑玉を磨いたものでできており、飾りの華やかさは当代並ぶものがないものであった。また彼女の紫玉の笛は、嫦娥からもらったものであるという伝説もあった。また「涼州」という歌を自分で作曲し、死後に玄宗によって世に広められたと伝えている。 興慶宮の沈香亭において、玄宗が李白に作詩させ李亀年に歌わせた「清平調詞」において、李白の詩に自分を趙飛燕にたとえた部分があった。このことを高力士に指摘され、侮辱と思い李白の官位授与を妨げた。そのため玄宗が趙飛燕の話題を避けた話や「そなたなら風に飛ばされない」とからかった説も伝えられ、楊貴妃が豊満であったのではという説の根拠となっている。なお、この話題を出した時、楊貴妃が「霓裳羽衣は舞えますのに」と不機嫌になったため、玄宗は「虹霓」という名の屏風を贈っている。 また有名なエピソードとして、楊貴妃がレイシ(ライチ、茘枝)を好み、嶺南から都長安まで早馬で運ばせたことも伝えられる。玄宗が毎年10月に華清宮(温泉宮)に赴き、その冬を過ごす時に楊貴妃が同じ輿に乗り端正楼に住み蓮花湯という温泉に入っていたことも知られる。 他に玄宗とともに二つが合わさった蜜柑を食べて、その姿を絵に描かせた話や、嶺南から献上された白い鸚鵡に「雪衣女」という名をつけ、人の声を完全に使えたため「多心経」をおぼえさせたが、ある日、鷹につかまれて殺されたので埋めて鸚鵡塚と名付けた話がある。また、安禄山に楊貴妃自身からも多くの贈り物を贈っている。 玄宗が親王と碁を打っている時、玄宗が負けそうになると、狆を放して碁盤を崩し、玄宗に喜ばれた。また、つけ髷で髪を飾り、黄色の裙(長い裳)を好み、龍脳(香料の一種)をつけていたため、遠くまでその香りがして、衣を通してその香りか領巾に移るほどであったとも伝えられる。 天宝14載(755年)6月、彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。 二日酔いに苦しんだ後、庭の花の露を飲んで肺を潤した説話、玄宗とともに牡丹の花の香りを嗅いで酔いを覚ました説話、豊満な肉体であったため夏の暑い時に口に玉でできた魚を入れて暑さを癒した説話がある。 また玄宗との酒のたけなわに、玄宗が宦官を百余人、楊貴妃が宮女を百余人率いて、後宮において両陣に分かれて戦争ごっこを行った。これを「風流陣」と呼んで、敗者は大きな牛角の杯で酒を飲み談笑したという説話が残っており、これは後に画題にもなっている。 『開元天宝遺事』によると、楊貴妃は夏になるとよく汗をかき、臭いを放っていた。汗を溜めた肌は赤く見え、拭うとその赤色が布に移ったという。 白居易の詩『新楽府』の一首「胡旋女」では、楊貴妃は胡旋舞という西域から渡来した舞を舞っていたという描写がある。
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