数々の開催危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 10:41 UTC 版)
競輪で最も伝統のある日本選手権競輪だが、開催され無い年もあれば、年2回開催された年もある。これは過去、幾度も開催の危機にさらされたためである。 後楽園競輪場で開催された第15回(1960年)の決勝戦当日(11月3日)、場内に入りきれなかった約1,500名の観客をバンク内に入れて競走を行わざるを得なくなった状況となった。その大会終了後、当時の施行者の東京都が「警備上の問題」を理由とし、すでに翌年の開催(第16回)が決定していたにもかかわらず開催を返上する事態となった。当時、来場者が数万人規模となるダービーを後楽園以外の競輪場では開催することが困難であったことから代替地として名乗りを挙げる施行者が現れず、そのため1961年度は競輪の歴史で唯一ダービーの開催がない年となった。 1962年度についても開催地の選定は難航を極め、2年連続で日本選手権競輪が開催されない可能性もちらつき始めていた。しかし、一宮競輪場(2014年3月廃止)が1963年3月に同大会の開催を引き受けた(年度としては1962年度の開催)ことから連続中止の危機は免れた。なお、この大会で特別競輪史上初めて、決勝戦がテレビ中継された(キー局は中部日本放送。他に東京放送、朝日放送がネット局)。 その後再び後楽園での開催に戻ったが、1967年に行われた東京都知事選挙において、都営ギャンブル廃止を公約に掲げていた革新系の美濃部亮吉が当選したことにより、公約に沿って美濃部は1964年の2月に行われた開催から続けてきた後楽園での日本選手権競輪開催を1968年限りで返上することを表明。そのため、またしても1969年度(第24回)の開催地が宙に浮く事態が生じた。だが、この時も危機を救ったのは一宮競輪場であり、1970年2月の開催を引き受けたため無事に開催された。 しかし、1971年には再度オールスター競輪も含めて開催地の選定に行き詰まり、夏場を迎えても開催が決定できない状況に陥っていた。だが、日本選手権競輪だけでも年度内に開催させたいという関係者の意向により、翌年の1972年3月に第25回が千葉競輪場で開催されることとなった。 以後は大会ごとに開催地が移動する持ち回り制となり、一か月程度の開催時期の変動があったりしたものの、同大会は2016年まで毎年3月に開催され続けた。なお、2016年は3月と5月の2回開催されているが、これは先述の通りそれぞれ開催年度が異なるためで、開催危機とは関係がない。 第74回(2020年)は、COVID-19による感染拡大の影響で、施行者の静岡市長田辺信宏が感染拡大を防止するため開催中止を決定したと大会直前の4月24日の記者会見で明らかにした。当時は政府から改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発令中であったこと、また選手・関係者合わせると全国各地から200名ほどが検車場などの狭い空間に一堂に会するため、万が一の感染拡大のリスクを取り除くことができず、やむを得ず中止の断が下された。日本選手権競輪の中止は、1961年に実施予定であった第16回(後楽園)以来59年ぶりとなったが、今回は前回とは異なり大会数はそのままカウントされており、2021年の開催は第75回となっている。その第75回では、史上初の無観客開催という事になった。
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