技術の継承と後継者の育成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 02:44 UTC 版)
「大山こま」の記事における「技術の継承と後継者の育成」の解説
大山こまの技術は、伊勢原に住む木地師によって継承されてきた。木地師の技能によって、見た目に美しく玩具としても丈夫で実用に耐えるこまが作られ、単なる子供の玩具ではなく大人も楽しむ郷土民芸品として人気が出ている。こまを作る木地師は、300年以上前に早川(現:小田原市)を経て伊勢原に移住してきた。彼らは大山に生育していたミズキやカエデなどを材料に椀、盆、ひしゃくなどの生活用品を作っていた。江戸時代の中期に入ると、こま、だるま落とし、ままごとの道具などの玩具が多くなっていた。 こまを作る木地師は現代に至っても旧来のしきたりを守り、自分で使う工具はすべて自作のものである。ものさしや定規さえ使うことがなく、寸法はすべてカンに頼る。作り方のマニュアルや手順書などはなく「見て技術を盗む」要領で技術の継承が行われるため、1人前になるまでには10年はかかるという。 こまを回転させるろくろは、昭和30年頃まで足踏みのものを使っていた。この時期が大山こまの最盛期で、二十数人の木地師が30軒ほどの木地屋でこまの製作を行っていた。しかし、玩具の多様化で需要が減り土産物としての販売が主流になるにつれて、木地師が減少の一途をたどっていった。1973年(昭和48年)の時点では、木地師が8人まで減少して後継者不足が懸念されていた。 2017年(平成29年)3月28日、伊勢原市は大山こまの製作技術を市の無形民俗文化財に指定した。この時点で技術保持者が4軒の5人のみとなっていて、平均年齢は81歳と高齢であり、もっとも若い保持者でも68歳であった。しかも職人の団体「太子講」は2016年(平成28年)に解散し、残る後継者がわずか1名のみという事態で、「こま参道の由来にもなった大山こま自体がなくなってしまうのでは」という懸念の声が上がるまでになっていた。 文化財指定の前年に当たる2016年(平成28年)、伊勢原市内の障がい者施設で技術指導を行い、大山ごまの技術を次代に伝える取り組みが始まった。この取り組みには、伊勢原市からの支援もあった。伊勢原市は補助金を出したり、こま作り教室を開いたりして、技術の継承を支援する方針である。大山詣が2016年(平成28年)に日本遺産に登録され、伊勢原市や神奈川県は大山の観光PRに努めている。その関係で、伊勢原市は江戸時代から続く伝統を持つ大山こまを指定文化財とした。伊勢原市は「子ども向けのこま作り教室を開き、小さいうちから関心を持ってもらい、将来の職人志望者を増やしたい」と後継者の育成も視野に入れている。 2018年(平成30年)、伊勢原市は大山こまの製作過程や歴史などを解説する記録映像を製作した。これは子供たちに関心を持ってもらい、ゆくゆくは後継者になってもらえればとの期待をこめたもので、約20分(約6分の短縮版、30秒のCM版もあり)の作品である。 製作費は文化庁からの補助金324万円を使い、テレビ神奈川に映像の作成を委託した。この記録映像は大山詣の映像とともに動画投稿サイト「YouTube」で公開されたほか、伊勢原市内の小中学校にも配布された。
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