戦後昭和時代
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1946年(昭和21年)から文芸誌『方寸』、『風流』、『群像』、『傳記』、『至上律』の創刊に助力し、翌年から毎年全国各地に旅行に出る。1948年(昭和23年)から日本芸術院会員。水上瀧太郎賞が設定されると選考委員となる。翌年、誕生日を祝う会「春の日の会」第1回を日比谷陶々亭で催され、芥川賞の復活に伴い選考委員となる。慶應義塾大学で「近代日本文学の展望」を開講。この頃日照雨事件が起こる。1950年(昭和25年)宮中歌会始に列席する。『朝日評論』でエドマンド・ブランデンと東西の詩について対談する。翌年『三田文学』の編集委員となり、下旬から奥入瀬渓谷、恐山方面に旅行する。11月に「新宮市歌」を作詞し、制定される。 1953年(昭和28年)に青森県上北郡十和町に「奥入瀬渓谷の賦」の詩碑が建ち、雑誌『心』の同人となる。翌年に檀一雄と共に九州を旅行する。疎開地の佐久に別荘「見山居」の新築を始める。1956年(昭和31年)に芥川賞受賞作品『太陽の季節』をめぐって舟橋聖一と応酬する。翌年、千代田区10周年にともない「千代田区歌」を作詞し、制定。千葉県銚子市犬吠岬に「犬吠岬旅情のうた」詩碑建立。40年ぶりに鉄町に「田園の憂鬱」時代の旧居を訪ねる。 1959年(昭和34年)に宮中歌会始に召人として選任され列席。和歌山県那智に「秋刀魚の歌」詩碑建立。紀勢本線の開通に先立って試乗し、新宮市に帰郷。新宮市熊野速玉大社社頭に「望郷五月歌」詩碑建立。『小説永井荷風傳』について中村光夫との応酬が始まる。1960年(昭和35年)文化勲章を受章。長野県北佐久郡浅間町に「湖畔口吟」詩碑建立。1961年(昭和36年)1月に新宮市名誉市民となり、5月に東宮御所に招かれ文学を談義した。翌年に芥川賞選考委員を辞任し、9月に山口県の「山口県民歌」「山口市歌」を作詞し制定。翌年、井上靖を連れて北海道旅行に出かけ、『北海タイムス』夕刊に「北海道吟行」を12回連載。 1964年(昭和39年)慶應義塾大学で「詩学」を開講し、堀口大學と共に「ミロのヴィーナス展」を見る。5月6日、夕方頃に朝日放送の「一週間自叙伝」というラジオ番組の5月20日放送予定分を自宅の書斎で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を発した直後心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。72歳没。京都の知恩院に葬られ、忌日を「春日忌」と呼ぶ。贈従三位、賜銀杯一組。法名は凌雲院殿詞誉紀精春日大居士。 1964年(昭和39年)、東京オリンピック開会式に、前年に作詞した「オリンピック東京大賛歌」が歌われた。北海道十勝国中川郡豊頃町の長節湖畔に四行詩碑建立。
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