成田線大菅踏切事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 23:16 UTC 版)
「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事における「成田線大菅踏切事故」の解説
1992年(平成4年)9月14日 (踏切障害事故) JR東日本の成田線久住 - 滑河間の大菅踏切(千葉県道103号江戸崎下総線)で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型ダンプカーの側面に千葉発佐原行き下り普通1457M列車(113系電車4両編成)が衝突。先頭車のクハ111-1038は前面が大破し、列車の運転士が死亡、乗客65名が負傷した。クハ111-1038は廃車になった。 殉職した運転士は直前に衝突を覚悟し、非常ブレーキをかけるのは勿論、パンタグラフ降下による電源遮断などの安全措置をとっていた。 事故の原因は、過積載(最大積載重量8,750 kgの4倍もの山砂を積んでいた)のダンプカーが踏切の停止線でブレーキが効かず、停止できなかったことに起因するものである。法律上はダンプカー側の道路交通法違反であり、JR東日本は被害者的立場ではあったが、この事故は先の東中野事故と合わせて、当時のJR東日本の上層部を含む社内にも多大なショックを与えた。 この事故を受け、車のドライバーにCMやポスターなどで注意を呼びかける「踏切事故防止キャンペーン」を実施することになる。 運転士は衝突時点では存命であったが、大きく潰れ変形した運転室からの救出は困難を極め、結果として運転士は病院への搬送途中で死亡した。房総地区ではこの事故以前にも同様の踏切事故で運転士が死亡する事故が発生していたため、本事故を教訓に113系など既存車両の前面に鋼板を追加で貼り付け強度を上げる工事(通称「鉄仮面」化)を実施したほか、事故以降に登場した209系量産車やE217系、E131系では運転席背面仕切り壁への脱出口の設置や運転室自体を拡大し、衝撃吸収構造(クラッシャブルゾーン)の採用と生存空間の確保に踏み切るきっかけとなった。 事故後、この道路は町道から県道に格上げされ、1995年(平成7年)から踏切を立体交差化する工事が始まったため、1996年(平成8年)からこの踏切は車両通行止めとなった。そして、1998年(平成10年)2月25日に大菅跨線橋が開通し、踏切は廃止された。 この当時、本事故に代表されるような大型車の過積載による重大事故が多発していたため、翌1993年(平成5年)に道路交通法が改正され(1994年5月施行)、過積載に対する取り締まりと罰則が強化された。ダンプカーの運転手は業務上過失致死傷罪で逮捕された。 またこの事故に際し、JR東日本はダンプカーの運転手らを相手に大破した車両の損害や復旧費用など総額1億3000万円余の賠償を求める民事訴訟を起こした。この裁判は、1998年(平成10年)10月26日千葉地裁において判決が下され、運転手、山砂の運搬を依頼した荷主、山砂を積み込んだ砕石会社、砕石会社従業員2名に対して1億円余の賠償を命じている。
※この「成田線大菅踏切事故」の解説は、「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の解説の一部です。
「成田線大菅踏切事故」を含む「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事については、「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の概要を参照ください。
- 成田線大菅踏切事故のページへのリンク