念入りな接遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「念入りな接遇」の解説
琉球に滞在中の冊封使は、琉球側からの手厚いもてなしを受けた。前述のように冊封使は総勢約500名という大勢である上に、約140日から250日という長期間、琉球に滞在した。琉球では国王が冊封使に対し、亡き前国王を祀る儀式である論祭終了後の論祭の宴に始まり、冊封後の冊封の宴、その他中秋や重陽に催す宴など、計7回の宴席を設けることになっていた。 琉球側は冊封使を迎えるに当たって、数年前から首里城周辺の景観の整備、修理を行っていた。そして天使館と呼ばれた冊封使一行の宿泊施設もきちんと整えた。そして冊封使滞在中は季節の花々を首里まで運び込むような手配も行った。 1866年の尚泰冊封時、琉球国王が設けた宴席で出されたメニューが残っている。冊封使に対しては第一膳から第五膳に至る全49品の料理の中には、燕の巣のスープ、スッポンの姿蒸しなどがあり、その他、フカヒレ、アワビ、ナマコ、大ハマグリ、鹿筋を用いた料理など、豪華な酒食が供せられた。前述の1800年に琉球に派遣された趙文偕らは、このような琉球側の厚遇に対してその負担を慮って、待遇の簡素化など経費削減を求めている。 実際、大勢の冊封使一行が長期間琉球に滞在し、しかも手厚いおもてなしを行うわけなので、琉球側の負担は多大であった。その上、前述のように冊封使一行が持参する中国製品の買い入れも行わねばならなかった。そのため琉球側は冊封使の来琉する数年前から、経費を捻出するために様々な施策が取られていた。例えば1866年の尚泰冊封の数年前には、冊封用の臨時税が課せられた。また冊封のための資金献納も働きかけられていた。19世紀以降、琉球では一定以上の金額を献納すれば士族に取り立て、より多額の金額を献納すれば譜代の士族とするという、いわゆる売位を行っていた。この売位に関する記録は1800年の尚温冊封時から見られるようになり、その後の尚灝、尚育そして尚泰冊封時にも盛んに行われ、琉球王府は献金者に士籍、譜代の家譜を濫給するようになっていた。このように費用の捻出に努めたものの、自力では全額を賄いきれずに薩摩藩から資金を借り入れているのが常であった。 清当局も冊封使を迎える琉球側の負担に配慮を見せなかったわけではない。冊封使は一行に宗主国としてはずかしくない言動を取るよう、在琉中の様々な禁止事項の指示を行っていた。そして1838年の尚育冊封時には道光帝に冊封使一行が琉球に持ち込む中国製品の買い入れで、琉球側が難渋している実態を訴えるとともに、冊封使一行が中国製品を持ち出すことを禁じるべきであるとの上書がなされた。この上書を受けて道光帝は私的に中国製品を琉球に持ち込んで買い取らせ、琉球側を苦しめることは中国の礼儀に反すると指摘して、陋習を改めるよう命じたものの、効果は見られなかった。 一方で冊封使の来琉は中国と琉球との文化交流の場ともなった。冊封使は琉球滞在中に碑文等の揮毫を行い、また一行内で文化に関心のある人々は、琉球の人々に詩文や音楽、そして医学などの教授を行った。1808年の冊封使は琉球では詩文、そして書を求められることが多いため、使節に詩文、書に長けた人物を入れるべきとの報告がなされている。そして明代以降の冊封使の多くは丁寧かつ多岐の内容に渡る琉球冊封時の報告書を遺しており、これらの報告書は琉球と中国との交流を示すとともに、重要な歴史資料として活用されている。 また清代では冊封使をもてなす7回の祝宴の中で最終宴席である望舟の宴の席上、琉球国王は冊封使に対して北京の官学である国子監に留学する官生の派遣を要請し、認められる慣例であった。国子監での留学年限は3年であり、儒教を中心としたカリキュラムが組まれていた。費用面については勉学のみならず衣食住といった生活面に至るまで全てを清側が持った。帰国後の留学生は琉球の国政で活躍し、また琉球国内での儒学の発展、普及に貢献した。
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