弟子への指導法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 23:16 UTC 版)
「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の記事における「弟子への指導法」の解説
先述したように、ヴェロッキオの工房に限らず、当時の工房はどこも『親方‐助手‐徒弟』からなる家族的な共同体であり、美術品を制作するのと同時に教育の場でもあった。工房では親方の指導の下に美術品の制作も教育も行われたが、仕事の規模や内容に応じて他の工房との協力などが行われたり、ヴェロッキオもフィレンツェからヴェネツィアへ移動するなどしたように、他の都市へ拠点を移すなど柔軟性のある運営が行われていた。 美術家を志す場合は若いころから徹底した職人的教育を受けていた。工房に入門する者の出自は様々で、親子代々の画家や彫刻家などの息子が圧倒的であったが、農民や豪商、公証人の息子など、様々な出自の者が集まっていた。15世紀のフィレンツェでは金工師の工房が多能な美術家の養成所となっており、ヴェロッキオの工房もそうであるが、ギベルティやポッライウォーロなどの工房にも優秀な若い弟子が集まっていた。 1470年代のヴェロッキオ工房では、絵画、彫刻、建築の素描や、板絵、フレスコ画、大理石彫刻の技法、遠近法や幾何学の研究、モザイク、寄木工芸、半貴石細工、黒金象嵌(ニエロ象嵌)、エマイユ(エナメル、それを用いた細工品)、銅版画、貴金属・非貴金属の加工、ブロンズ鋳造など多方面を手掛けていたという。 依頼を受けての制作でも、宗教関係の絵画、彫刻ばかりではなく、家具調度品、祝典儀式のための装飾、馬上槍試合のための装備、さらには舞台装置、仕掛け花火、噴水などを行っており、当時の芸術家たちが1つの分野に拘らず、多数の方面の技術を習得しようとしていたことがわかる。 ヴェロッキオの工房での指導法は伝わっていないが、弟子であったレオナルドが多くの手記を残している。おそらくヴェロッキオ自身の指導法を、レオナルド自身が昇華させたものであると考えられる。この工房からボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ピエトロ・ペルジーノ、ロレンツォ・ディ・クレディなどの重要な画家たちが誕生していることが、優れた指導が行なわれていたことを示す証左となっている。 レオナルドの手記「絵の本」によると、 1、画家は「自然」を手本としなければならない ‐ 画家が手本として他人の絵を選ぶなら、見どころのほとんどない絵を制作するようになるだけである。だから、自然に学ぶならば、私たちがジョット・ディ・ボンドーネやマザッチオなどの、ローマ以後の画家に認めるように立派な成果をあげることだろう。 2、研究の順序 ‐ 青年は第1として、遠近法を学ばなければならない。第2に対象の寸法や形、第3に立派な肢体に慣れるため、立派な先生の筆蹟を学ばなければならない。習ったことの理法を確実に飲み込むため、自然の写生を行うのがよい。そしていろいろな名匠の手蹟を見ておくこと。芸術を作る習慣をつけること。「練習して多量の作品をこしらえるためには、いろいろな師匠たちが紙や壁に描いた各種の構図を写すのに、学習の第一期を当てる方がいい、こうすれば稽古も早く立派な腕ができる」と言う者もいるが、立派な構図をもち、勉強家の師匠の手による作品を習うのなら、このやり方でも素晴らしい成果が上げられるだろう。しかし、こういった師匠はごく稀でほとんど見当たらないのだから、下手な作品を習って、変な癖をつけるよりも、自然に学んだ方が確実である。 3 画家は、見物人を自分の方へ引き寄せ、大きな感嘆と興味とで、人々を引きとめるような作品を制作することに励まなければならない。だが、理論を知るまえに稽古にかかってはいけない。そうしてしまうと、芸術を学ぶ貪欲な心が、芸術から当然得られるはずの光栄を打破ってしまうからだ。 ヴァザーリの「芸術家列伝」によると 「ヴェロッキオは、自然の事物、すなわち本物の手、足、膝、脚、腕、胴体などを石膏で型取りし、それを前に置いてじっくりと模写した。」という。
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