弟子や分流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/04 15:12 UTC 版)
太刀流は示現流の東郷家からは異端とされてしまったが、傑山の下には多くの弟子が集まった。しかし、和田助貞(和田源太兵衛)は「常陸流」を、大脇主右衛門や小野郷右衛門は「飛太刀流」を称したように、高弟の多くは独立し、独自に技を変え、新たに流儀を開き、4人とも演武館師範となった。 田中傑山の高弟の大山貞政(大山角四郎)も宗家の田中喜助と同様に1773年(安永2年)に稽古所の師範の一人になった。また、貞政の子の大山綱章(大山角太郎)も演武館師範となった。 幕末における著名な太刀流の師範として、島津斉彬時代の郡奉行でもあった大山後角右衛門がいる。大山後角右衛門は、大山貞政の子孫である。この他の幕末の太刀流門弟には、西郷隆盛、河野主一郎、山野田一輔、村田経芳等がいる。
※この「弟子や分流」の解説は、「太刀流」の解説の一部です。
「弟子や分流」を含む「太刀流」の記事については、「太刀流」の概要を参照ください。
- 弟子や分流のページへのリンク