弟子や若手の育成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:50 UTC 版)
「笑福亭松鶴 (6代目)」の記事における「弟子や若手の育成」の解説
若手の芸人を非常に可愛がっていた。師匠(3代目林家染丸)を早くに亡くした4代目林家小染には、大ネタである「らくだ」の稽古を直に付け、小染の最初の独演会(1979年)のプログラムには「この調子でたゆまず精進してくれれば四代目染丸襲名も近いうち夢でない」と記して将来を嘱望していた。その小染が1984年に若くして事故で急逝した際には、不祥事による謹慎中の身で通夜に参列した桂きん枝(現・4代桂小文枝)に声をかけ、その後「桂勝枝」の名前で復帰したものの芸能活動をほぼやめていたきん枝を伴って3代目桂小文枝の自宅を訪れ、「もう戻したれ」と持ちかけた(小文枝も「タイミングの問題」と考えており、1986年に「きん枝」に復名して本格的な芸能活動を再開した)。 弟子の笑福亭鶴光が山本正之のプロデュースで「うぐいすだにミュージックホール」をリリースして大ヒットしたが、それを聞いた松鶴は「ろくに落語もできんくせに流行歌手かい!」「ストリップの歌うたいやがって」と激怒し、これを契機に鶴光は本格的に落語に取り組むことになった。 鶴瓶の弟子で松鶴の孫弟子にあたる笑福亭笑瓶は落語家志望だったため、鶴瓶に弟子にしてほしいと懇願した。そこで鶴瓶は「ウチの嫁と、師匠の松鶴に気に入られれば入門を認める」と条件を出す。鶴瓶の妻には認められ、その後松鶴と対面した際に「君は人を笑わせるのが好きか」と問われ、笑瓶は「好きです」と即答した。松鶴は笑瓶に対し、「こいつ(鶴瓶)の生き様を見習え」と告げたという。
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