弟子の活躍と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/06 00:30 UTC 版)
欧州における数多の門弟の中でも特筆されるのが、オランダで指導し後に世界チャンピオンとなったアントン・ヘーシンクとウィレム・ルスカである。ヘーシンクは1961年にパリで開催された世界選手権で神永昭夫や曽根康治ら日本のトップ選手を下し、外国人初の優勝を果たした。少年時代から指導したウィレム・ルスカについては、1963年の世界選手権のためソルトレイクシティへ出発する10日前にも直接指導を行った。40歳を越えていた平野は26歳のルスカを寝技で子供を扱うように手玉に取り、「立技で日本人の2流級、寝技で日本人の5流級」が平野の実感であった。ところが直後に開催された世界選手権でルスカが重量級金メダルを獲得し、事実上世界一の柔道家になると、平野は呆然としたという。即ち、教え子のルスカの優勝という喜びと、日本人柔道家の弱体化という現実による葛藤であった。 帰国後は綜合警備保障や母校・拓殖大学で後進の指導に当たり、柔道のみならず人との接し方や話術、身だしなみなど欧州仕込の社会人の在り様を説いた。弟子には後に愛知県警柔道師範を務めた高濱久和など。入院中であった1993年7月、同年4月に死去した拓大時代の先輩である木村政彦の後を追うように他界した。 平野は日本よりも欧州で知名度が高く、2014年に「平野時男師範20年追悼式」がフランスのブルゴーニュで開催さた際には、かつて平野の指導を受けた高齢の門下生たちが駆け付けている。平野から直接指導を受けた門弟の多くが高齢化ないし他界した現在、平野の技術をそのまま継承する柔道家はほぼ皆無だが、動画サイトYouTubeでは当時の平野の稽古風景と体捌きを確認する事が出来る。とりわけ背負投や跳腰における、ダンスでも踊るかの如き軽やかな独特のステップ(“事前作り”と呼ばれる)は特徴的である。
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