建設位置と発掘調査とは? わかりやすく解説

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建設位置と発掘調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:33 UTC 版)

鴻臚館」の記事における「建設位置と発掘調査」の解説

江戸時代福岡藩学者青柳種信長野種正・伊藤常足らが鴻臚館位置博多部の官内町現在の福岡市博多区中呉服町付近)だと唱え、この説は大正時代まで広く信じられていた。しかし、九州帝国大学医学部教授中山平次郎が、万葉集記述などを検討し福岡城址説を提唱した当時福岡城址には帝国陸軍歩兵第24連隊駐屯していたが、1915年博多どんたくによる同連隊開放日中山兵営内を踏査し古代の瓦を表面採集1926年から1927年の「考古学雑誌」に論文発表した。さらに、同連隊兵役についていた鏡山猛弾薬庫歩哨かたわら古代瓦の破片採集したことも中山説の傍証となった。この2人はのちの1930年九州考古学会を立ち上げている。 戦後1948年歩兵第24連隊兵営跡地国民体育大会に伴う競技場建設が行なわれ、翌1949年には平和台野球場建設された。この建設工事に際しては、1950年中山平次郎師事していた高野鹿・大場憲郎が大量の瓦や中国越州窯青磁採集し1951年には瓦や越州窯青磁と共に鴻臚館遺構一部考えられる礎石出土したが、いずれも正式な発掘調査が行われず、遺構そのまま破壊されたものと考えられていた。しかし、1957年改修工事が行われた際に3,000点の陶片出土、うち一部中国越州窯青磁のものと同定される。そして1987年球場外野席改修工事による発掘調査で、破壊されたとみなされてきた遺構一部良好な状態で発見され、残る遺構同様に残存している可能性急浮上した。 平和台球場1950年1978年まで西鉄(後の太平洋クラブクラウンライターライオンズ1989年1992年まで福岡ダイエーホークス本拠地としていたが、ダイエー1993年本拠地福岡ドーム(現:福岡PayPayドーム)に移した後、歴史公園整備事業開始伴って1997年閉鎖したその後スタンド等の建築物解体し1999年から始まった本格的な発掘調査は現在も続いており、2004年5月には国の史跡指定された。 発掘調査によって木簡瓦類出土。他にも越州窯青磁長沙磁器白磁新羅高麗産の陶器イスラム圏青釉陶器・ペルシアガラスが出土している。また建造物第1期から第5期区分される時代的変遷判明。ただし、9世紀後半からの第4期10世紀後半11世紀前半第5期遺構福岡城建築によって破壊されている。奈良時代トイレ遺構寄生虫分析により、豚や常食する外国人トイレ日本人トイレ別々に設けられていたことが判明している。さらに、男女別のトイレであり、トイレットペーパーには籌木ちゅうぎ)という棒きれ使われていたことが判明している。 発掘調査終了した南側遺構には1995年鴻臚館跡展示館建てられ検出され遺構出土した遺物展示されている。 2016年春遺構埋め戻し芝生広場として開放された。建造物跡地を示す印がつけられている。

※この「建設位置と発掘調査」の解説は、「鴻臚館」の解説の一部です。
「建設位置と発掘調査」を含む「鴻臚館」の記事については、「鴻臚館」の概要を参照ください。

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