建設会社勤務
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パシフィック在籍時の1946年に31歳となった白石は、戦後の食糧難から生涯続けられる仕事への転職を考えていたが、広陵中の先輩であり審判を務めていた稲田正次から、進駐軍の工事を請け負っていた別府の建設会社・植良組を紹介され、パシフィックを退団し入社した。当時の新聞には、白石は眼が悪く自信を失ったために野球を辞めた、と書かれたという。 植良組で庶務の仕事を数ヶ月務めたところで、社長と稲田から「野球部ば作りたいけん、監督ばしちゃらんとやろか」と頼まれた。道路を隔てた向かい側のライバル会社・星野組が、永利勇吉や荒巻淳を獲得して都市対抗野球出場を目指すという。なお、星野組の監督は広陵中の先輩・加藤喜作だった。「負けたらいかんばい。力ば貸してもらえんとやろか」と懇願され、野球からは離れようと遠く別府まで来たのに、とも考えたが、業務命令とも言われて白石は監督を引き受けた。 当時の九州は翌1948年の第19回都市対抗野球大会を制す西日本鉄道や、大岡虎雄らのいた八幡製鐵所、そのライバルで木塚忠助を擁していた門司鉄道局など実業団の強豪がひしめいていた。しかし、実績のある選手の勧誘は義理や面子もあってうまくいかず、無名の高校生を集めチームを強化。また、懇意にしていた藤村隆男が肩を壊して呉に帰っているという話を聞きつけ、「別府の温泉に入ってから肩治しんさいよ」と口説き入団させる。その後、藤村は本当に肩が治り、大きな戦力となった。 1947年の第18回都市対抗野球大会では南九州地区予選決勝まで駒を進めるが、決勝でライバルの星野組に惨敗し全国大会への出場を逃した。手薄な戦力を率いての監督采配は評価され、八幡製鐵所から監督として声が掛かったという。しかし、翌1948年春に巨人が別府でキャンプを張ると、監督の三原脩や、中島治康・千葉茂らから「帰って来いよ、また一緒にやろうよ」と声がかかり、白石は再び巨人に復帰した。これについては、かねてより遊撃手に不安を持っていた三原が、茂林寺の猛練習に耐えた白石を復帰させる目的で別府キャンプを仕組んだともいわれる。この時の巨人の宿舎・日名子旅館は荒巻淳の養家で植良組から徒歩1分の所にあり、さらに旅館から坂を上がった所に稲尾和久の生家があったという。なお、植良組の後任監督は広陵中の先輩・岩本義行が引き受けた。
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