幼少年時代から早稲田大学までとは? わかりやすく解説

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幼少年時代から早稲田大学まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:42 UTC 版)

里見岸雄」の記事における「幼少年時代から早稲田大学まで」の解説

里見岸雄明治30(1897)年3月17日国柱会創始者である田中智学三男として、東京都本所区本所横網(現・墨田区)に生れた。明治32年春から、当時田中書斎としていた鎌倉要山の師子王文庫(香風園)で、母方祖母曾祖母育てられ百人一首や『孝経』を習う。明治36年鎌倉師範学校付属小学校に通う。明治40年藤沢鵠沼小学校小川三宅預けられ鵠沼小学校転校明治42年中学入学希望するが、父田中智学反対に遭い静岡県三保にあった国柱会施設最勝閣で1年間養生厳し修行従事させられた。同年田中智学が行った夏季講習会の「本門戒壇論」「御製講義」で、田中日本国体学を提唱したことが里見大きく影響与えたまた、明治43年14歳の時、田中智学の『日蓮聖人教義』と大隈重信の『国民読本』を読み思想的芽生え土壌与えられ、さらに明治44年大逆事件判決に縁して、田中の『大逆事件に於ける国民的反省』を読み、深い感動覚え日本国体学への関心をたかめた。明治45(1912)年16歳東京中野日本済美中学校系列杉並区済美養護学校のみ現存)に入学したが、在学中担任教師宗教衝突。父田中激怒し退学命じ香風園風呂たき等の雑役などの懲罰課す。しかし失意里見は、日蓮諫暁八幡鈔』に「仏法必ず東土日本より出づべき也」とあるのを読み、いつか必ず海外雄飛して、日本国体の真義日蓮主義の大思想世界人類に宣布しようと決意したその後上京し国柱会書籍販売印刷取り扱う祐善堂に勤めることになり、次兄田中澤二(後、立憲養正会会長)と同居大正3年1月から正則英語学校(現、正則学園高等学校)に編入一日おきに徹夜猛勉強始め大正5年4月中学卒業試験合格。ついで早稲田大学予科編入試験合格大正5年9月入学大正6年9月哲学科進級大正8年12月卒業論文として「日蓮主義の新研究」を前例のない版の単行著作として提出大正9年7月24歳首席卒業全学生総代として大隈重信総長面前謝辞述べた

※この「幼少年時代から早稲田大学まで」の解説は、「里見岸雄」の解説の一部です。
「幼少年時代から早稲田大学まで」を含む「里見岸雄」の記事については、「里見岸雄」の概要を参照ください。

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