幼少年時代から早稲田大学まで
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「里見岸雄」の記事における「幼少年時代から早稲田大学まで」の解説
里見岸雄は明治30(1897)年3月17日、国柱会の創始者である田中智学の三男として、東京都本所区本所横網(現・墨田区)に生れた。明治32年春から、当時田中が書斎としていた鎌倉要山の師子王文庫(香風園)で、母方の祖母と曾祖母に育てられ、百人一首や『孝経』を習う。明治36年、鎌倉師範学校付属小学校に通う。明治40年、藤沢の鵠沼小学校長小川礫三宅に預けられ、鵠沼小学校に転校。明治42年、中学へ入学を希望するが、父田中智学の反対に遭い、静岡県三保にあった国柱会の施設最勝閣で1年間の養生と厳しい修行に従事させられた。同年、田中智学が行った夏季講習会の「本門戒壇論」「御製講義」で、田中が日本国体学を提唱したことが里見に大きく影響を与えた。また、明治43年14歳の時、田中智学の『日蓮聖人の教義』と大隈重信の『国民読本』を読み、思想的芽生えの土壌を与えられ、さらに明治44年、大逆事件の判決に縁して、田中の『大逆事件に於ける国民的反省』を読み、深い感動を覚え、日本国体学への関心をたかめた。明治45(1912)年16歳で東京中野の日本済美中学校(系列は杉並区立済美養護学校のみ現存)に入学したが、在学中に担任教師と宗教で衝突。父田中は激怒し、退学を命じ、香風園で風呂たき等の雑役などの懲罰を課す。しかし失意の里見は、日蓮『諫暁八幡鈔』に「仏法必ず東土の日本より出づべき也」とあるのを読み、いつか必ず海外に雄飛して、日本国体の真義と日蓮主義の大思想を世界人類に宣布しようと決意した。 その後上京し、国柱会の書籍販売や印刷を取り扱う祐善堂に勤めることになり、次兄田中澤二(後、立憲養正会会長)と同居。大正3年1月から正則英語学校(現、正則学園高等学校)に編入。一日おきに徹夜の猛勉強を始め、大正5年4月、中学卒業試験に合格。ついで早稲田大学予科編入試験に合格。大正5年9月入学、大正6年9月、哲学科に進級。大正8年12月、卒業論文として「日蓮主義の新研究」を前例のない菊版の単行著作として提出。大正9年7月、24歳で首席で卒業。全学生の総代として大隈重信総長の面前で謝辞を述べた。
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