幼少年期と青年期 (1906–1923)
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「ディートリヒ・ボンヘッファー」の記事における「幼少年期と青年期 (1906–1923)」の解説
ディートリヒ・ボンヘッファーは1906年2月4日にブレスラフ(現在のポーランド領ヴロツワフ)で8人兄弟の6番目の子として生まれた。彼には双生児の妹ザビーネ・ボンヘッファーがいた。父カール・ボンヘッファー (Karl Bonhoeffer) は精神科医、神経病理学者であった。母パウラ・ボンヘッファー(旧姓ハーゼ)は、イエナ大学神学部教授でルター派の歴史神学者カール・フォン・ハーゼの孫娘で教師であった。従兄弟に反ナチ運動に共に参加したアルビド・ハルナックとファルク・ハルナックがいた。ディートリヒ・ボンヘッファーは富裕な教養市民階層の家庭で成長した。母は家庭内で初等教育を教えたが、キリスト教教育の面で不安を感じていた。なぜなら、父カールは宗教の問題に関して距離を置いていたからである。そのためか、ボンヘッファー家はキリスト教会の礼拝には滅多に出席しなかった。 父のカールがベルリン大学からの招聘を受けたため、1912年に家族はベルリンに転居した。双子の妹による回想によると、ボンヘッファーは第1次世界大戦の終わり頃、死と永遠に関する問題に取り組んでいた。次兄ヴァルターが1918年4月に戦死し、母パウラが深い悲しみに沈んだためと言われている。生徒としてボンヘッファーは、フリードリヒ・シュライアマハーの『宗教について 宗教を軽蔑する教養人のための講話』、フリードリヒ・ナウマンの『宗教に関する書簡』を読み、教会史に取り組んだ。ギムナジウムの最終学年時に、彼は選択科目としてヘブライ語を選び、自由科目として福音主義神学に取り組んだ。ボンヘッファーがギムナジウムで大学神学部入学を前提とする科目を選択したことに彼の家族は驚いたが、その意図を理解し支持した。1923年、彼は17歳でベルリンのグルーネヴァルト=ギムナジウム(現在のヴァルター・ラーテナウ=ギムナジウム)でアビトゥーアに合格した。
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