幼少時の生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:52 UTC 版)
常陸国筑波郡(現在の茨城県つくばみらい市)にルーツを持つ横浜市中区真金町の遊女屋の長男・椎名貞雄と、千葉県市原市瀬又の農家の娘・伊藤ふくの長男として生まれる。3歳で父を結核で亡くし、ふくは遊郭を手伝っていた。 歌丸が9歳の時に戦況の悪化によりふくの実家がある千葉方面へ疎開。疎開中、横浜の空襲が起き、それをただただ見つめていたという。また、千葉への疎開中は道端の草やサツマイモばかり食べていた為、その影響で終戦以降「私ゃね、サツマイモが食えねえんだよ」とサツマイモが食べられなくなってしまったことを語っていた。さらに、父方の祖母・タネとふくはしきたりの違いなどで関係が修復不可能になり、ふくは遊郭を出てしまう。 終戦直後、疎開先に母ふくが歌丸を引き取りに来たが、2,3日後にはタネが歌丸を真金町に連れ帰った。タネが連れ帰る事を歌丸本人も嫌とは言わなかった(歌丸本人談)。タネ(1879-1953)は三重県四日市市川原町で名産品万古焼の包装紙を扱う紙卸業「紙宗」の長女で、16歳で横須賀柏木田遊郭の若葉楼で働き始め(職種は不明)、30歳で結婚、大正時代には吉原遊廓で引手茶屋「東屋」を夫とともに営んでいたが、関東大震災を機に横浜真金町の永真遊郭で周旋屋を始め、昭和9年から女郎屋「富士楼」を経営、近隣の「ローマ」、「イロハ」の女将と合わせて「真金町の三婆」と呼ばれるほどの気性の女性だった。 この空襲で生家も焼失したが、戦後すぐにタネはバラックを建て「富士楼」の経営を再開。店も繁盛したため戦後の貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語に影響されたことが、落語家になるきっかけとなっている。祖母に連れられてよく行った伊勢佐木町の大衆劇場『敷島座』で芝居の幕間で観た漫才にも夢中になって漫才師になることも考えたが「わがままな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」と思ったことも落語家を目指したきっかけの一つとなった。 小学校4年生の頃には、将来落語家になると既に決めており、自習の時間になると落語を演じていた。これが非常に好評で、時には他のクラスからも自習になったから落語をやってくれと要請があった程である。
※この「幼少時の生い立ち」の解説は、「桂歌丸」の解説の一部です。
「幼少時の生い立ち」を含む「桂歌丸」の記事については、「桂歌丸」の概要を参照ください。
- 幼少時の生い立ちのページへのリンク