幼少時代から極真会館入門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 04:27 UTC 版)
「中村誠 (空手家)」の記事における「幼少時代から極真会館入門」の解説
宮崎県西臼杵郡日之影町に7人兄弟の4男として生まれる。小学生時代は山道を2 - 3時間かけて通い、中学時代は卓球・陸上競技を行い、高校時代はサッカーをやっていた。サッカー部の顧問であった今元教諭は「サッカーを目いっぱいやれ。おまえなら、サッカーで進学できるぞ」と中村の才能を見抜き期待した。しかし、中村は父親が中学生の時に倒れ、住み込みで働く事を条件に高校進学していたため、放課後は住み込み先の仕事をするのが殆どであった。1缶100キログラムのプロパンガスの配達を23時まで、毎日行っていた。「スクワットをやっているようなものだった」と中村は語るが、幼少時代から身体を動かしていた事が基礎体力の増強に繋がった事は確かで、後の中村の空手の強さに繋がった。 高校卒業後、上京して食品工場に就職。その後、劇画「空手バカ一代」で大山倍達の存在を知り、興味を抱く。極真会館への入門も続くか続かないかは別にして、大山に会いたい一心で空手を続けていた。山崎照朝・佐藤勝昭・大石代悟・東孝らの指導や影響を受けたが、その様子を 「大山(倍達)館長に認められるのに時間かかりましたよ。初対面で『まあ、頑張りなさい。でも、キミは続かないよ』と言われましてね。“カラダが大きいのは極真カラテは続かない”という風潮が当時、あったんですよ。白帯で初めての審査の時に頑張ってええ組手して、飛び級だと思ったら水色帯なんですよ。それ以降の審査も一段一段上がりましたからね、帯は。ということは館長はそれほど期待していないんですわ。僕に対しても『いつまで続くのかねぇ、この男は?』って感じでね。私に期待しとったら、飛び級したっていいじゃないですか。強いんだから、そこそこ。自惚れて言うじゃないけども。 館長がよく話し掛けてくれるようになったのは、茶帯取ってからですわ。山崎先輩によく可愛がられてねえ(笑)。可愛がられたっていうのはメシ食わしてもらったとかじゃないんですよ。私らで言う可愛がられたっていうのは、組手の相手させられる事だからね。それで山崎先輩が館長に『あの中村っていうのはいいですよ』と言ってくれたらしいんですわ。まあ、そういう事で会社も辞めて、本部に入って、空手一本の生活になったわけですよ」 と述懐している。
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