平成維震軍へ改称、最盛期
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「平成維震軍」の記事における「平成維震軍へ改称、最盛期」の解説
1993年(平成5年)には小原道由が本隊、後藤達俊がレイジング・スタッフとそれぞれ決裂する形で加入。後藤の加入と共にユニットを平成維震軍と改名する。名付け親になったのは、当時、雑誌『週刊ゴング』にて越中の取材を担当していた記者の金沢克彦である。“維新軍”ではなく、あえて“維震軍”と名付けたのは、「日本のプロレス界を震撼させる」という意味が込められたためである。小林が大前研一が当時発足した「平成維新の会」のネーミングに惹かれてメンバーに提案し、仮案として「平成維新軍」と言う名前が浮かび上がり、越中からユニット名の相談を受けていた金沢が前述の理由によって「平成維震軍」と命名した。 結成当初は全員が袴をはき、髪を丸坊主またはスキンヘッドにして、結束の証としていた。中でも、後藤は髪の毛はおろか眉毛まで剃り落とし、ザ・グレート・カブキは肩までの長髪からスキンヘッドにした上、ペイントを頭部にまで描いていた(後にコスチュームや髪型は各人の自由となる)。また、トレードマークとして「覇」と書かれた旗を誇示し、平成維震軍が勝利を収めた際には、リング上でその旗を振ることもあった。 またこの頃から、採算も自分たちでやりくりする自主興行シリーズを本格的に始める(単発的な自主興行は反選手会同盟時代に2回、新日の若手やWARの選手を借りて実施している)。表向きには新日本本隊に対抗するためだったが、実際は、当時新日本経営陣が所属選手が多くなったことを受け別働隊の組織作りを目指していたため、その一環として企画されたというのが真相とされる。当初は「タイガー・ジェット・シンと越中の抗争」「昭和維新軍対平成維震軍の対抗戦」など、特色を生かした試合が多く行われた。しかしこれらは結果として、旗揚げ戦の越中vsシンをアントニオ猪木がレフェリーとして裁いたうえ、猪木がシンに試合中スリーパーを極めるなど猪木とシンの絡みに注目が集まってしまったり、昭和維新軍との対抗戦では長州力がVIP待遇されたうえ、昔の仲間に囲まれた長州にとって非常に居心地の良い空間になってしまったりと、平成維震軍が主役になったとは言いがたいものがあった。結局、動員が伸び悩み、次第にメインが本隊選手だけで行われるなど「スター選手が数人欠けた新日本興行」のようになってしまい、この試みは1年余りで頓挫する。この時、観戦に来ていた剛竜馬が「おい! 平成維震軍! お前らちょっと違うんじゃないかい?」とリング下でマイクアピールした事が、当時の多くのファンの心情を代弁していたとも言える。 維震軍の自主興行はその後も開催されたが、1995年(平成7年)2月の興行では新メンバーとして勧誘していた凱旋帰国直後の天山広吉を因縁の蝶野に横取りされただけでなく、試合の目玉であった長州に出場をボイコットされると言う二重の屈辱を味わった(この出来事も含め、この日の後楽園ホールでは平成維震軍による昼興行、新日本プロレスによる夜興行の双方において事件が多発した事から、メディアは「2.12 平成の乱」と名づけている)。 1996年(平成8年)には小林と野上彰が、シングルでカベジェラ・コントラ・カベジェラ(敗者丸坊主マッチ)として対決し、敗者の小林が潔く坊主になる姿や、野上自身も飯塚高史とのタッグユニット(JJジャックス)を解散した直後で新日本での自分のポジションを失いかけていたころで、平成維震軍の反骨精神に共闘する姿勢を持ち、軍団に仲間入りする。一方、この時期までに青柳とカブキが後述の理由によってユニット並びに新日本プロレスから離脱した。
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