市内電車焼き討ち事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:18 UTC 版)
「名古屋電気鉄道」の記事における「市内電車焼き討ち事件」の解説
名古屋電気鉄道が順調に発展していくにつれて、会社に対する批判や改善要求、そして市内線の市営論が湧き上がっていった。その結果、前述の通り1908年6月に名古屋市と名古屋電気鉄道の間で報償契約が結ばれたのだが、この契約の中には市内線の事業を25年後に名古屋市に譲渡する、という内容が含まれていた。 名古屋電気鉄道に対する市民の要求には、運賃の値下げ、始発・終発時間の延長、線路・車両などの施設の改善、接続するほかの電気鉄道との連絡の改善などがあった。また、名古屋電気鉄道は1908年から当時としては著しく高い10%前後の高配当を行えるような高収益を上げており、これも市民の批判の的となった。大阪市電を嚆矢として東京市電や京都市電のような市営電車が出現していることに刺激され、名古屋でも市内電車の市営化を実行するべきとの世論も高まったが、名古屋市は先の報償契約を締結したばかりであることや資金調達の目処が立たないことから、市内線の買収には消極的であった。そのため、市民の関心は運賃問題に向けられていった。 市内線の運賃は、距離によって変動する区間制を開業時から採用していた。区間制では路線網が拡大して遠距離になればなるほど運賃が高くなっていくので、遠距離の利用者は高負担を強いられた。大正デモクラシーの風潮や新聞上の論争、第一次世界大戦勃発直後の不況などが手伝って、1914年ごろからこの運賃制度に対する非難は一層激しくなった。こうした情勢の中、名古屋電気鉄道は8月に運賃改定案を名古屋市に提出し承認を求めた。その案は、区間運賃制を維持し、運賃を最低1銭・最高10銭とするなど、基本的に従来の制度と変わらなかった。 1914年9月6日5時、鶴舞公園で「電車運賃値下問題市民大会」が開催された。市民大会には会社の方針に憤慨した3万人とも5万人とも言われる市民が集結し、運賃を最低1銭・最高6銭とすることなど5項目の決議が行われた。大会解散後の午後7時ごろから興奮した群集はデモ行進を始め市内に繰り出し、通りかかった電車を破壊したのを手始めに、数グループに分かれて各所で電車を襲撃・放火していった。あるグループは那古野町の本社を荒らしてその倉庫を全焼させ、またあるグループは警備を突破して柳橋駅構内に乱入し、ガソリンをまいて駅舎を全焼させた。翌7日になっても緊張状態が続いたため軍隊の出動が要請され、第3師団の歩兵6個中隊と騎兵1個中隊が市内の警備にあたった。8日にも騒動が起きたが、9日に軍隊が厳重な警備体制を敷いたためようやく騒動は沈静化した。 一連の事件は電車焼き討ち事件と呼ばれ、この事件により市内線用車両4両と郡部線用車両1両が全焼し使用不能になるなど、23両の電車が被災した。事件の責任をとって常務取締役の岡本は取締役に、社長の神野は相談役に退いた(当初は役員総辞職を決意したものの、株主協議会で反対され留任となった)。常務取締役の後任は取締役の上遠野富之助が選ばれ、社長には取締役の富田重助が再任された。運賃は11月から最低2銭・最高6銭に値下げされ、市民の要求がほぼ反映された。
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