小学校から商業学校時代
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1913年(大正2年)4月、御所村尋常高等小学校入学。当時は同級生から「小柄で病気がちでおとなしい」、「一本気で融通が利かない」、「一人っ子、外面が悪く独善的で協調性に欠ける」などと回想されており、おとなしいものの我が強い子どもであった。三年時には27日間欠席したと記録されていて、病気がちであったという回想は確かなようで、また恩師であった教師の談によれば、算数が得意であったが成績はクラスで三番から四番程度で、級長になったことは無いといい、飛びぬけて優れた小学生ではなかった。しかし小学校時代から「お話の時間や学芸会では目立つ」、「弁論が上手い」、「近所の子どもたちに演説を聞かせていた」など、後に国会などで雄弁で鳴らすことになる片鱗を見せていた。 1920年(大正9年)4月、徳島県立商業学校(以下、徳商)入学。これは実家が肥料商であったため、家業である商業を学ぶ商業学校への進学をしたためであった。順当にいけば前年の大正8年4月に進学しているはずであり、一年遅れの徳商入学となった。入学が遅れた理由としては小学校や徳商の同級生らから、入学試験に落ちて浪人した、補欠合格はしたものの自信が持てず留年した、あるいは眼の病気のためとの証言があってはっきりしない。当時、徳島中学校と並ぶ難関中等学校であった徳商の入学試験に際し、タカノは小学校教師に毎晩の特別の補習を依頼し、補習終了まで別室で待っていた。 徳商に入学し、徳島市前川町にあった第二宿舎に入寮し寄宿生活を始めた。時々宿舎を抜け出し、カフェで飲酒したり無声映画を見たりする硬派グループのリーダーとなったと伝えられている。久吉にねだってコダックの小型カメラを購入してもらい、カメラ悪用の疑いで久吉が学校に呼び出されたこともあった。 徳商での成績について詳細は不明であるが、中位であったと言われている。徳商時代、弁論で存在感を見せるようになる。中学一年時に弁論部に入部するとたちまち頭角を現して弁論部キャプテンとなった。徳島県下青年学生雄論大会などで得意の雄弁を見せ、第一席となったこともあると伝えられている。また徳島で成長した賀川豊彦の講演を聞いてその弁論術に感動し、永井柳太郎の雄弁術に感激したというエピソードも残っている。 徳商では野球部強化のための資金集めと商業実習を兼ねて、ワイシャツや毛布などを販売する校内バザーを行うことが慣例となっていたが、1925年(大正14年)7月、バザーの会計に不正があるとの疑いが生じ、四年生を中心として校長の追放運動が発生した。一年留年しており、当時最高学年の五年生であったが、運動の主要メンバーとなった。得意の弁論を駆使して校内を説いて回り、校長にも直接談判した。そして四年生全員が連判状に署名した上で、学校を休んで眉山の茂助ヶ原に集結し、気勢を上げるという事態に発展した。その結果、生徒と保護者の代表がバザーの会計監査を行うことになったが、不正は明らかにならなかった。最終的に他一名の生徒とともに一連の騒動の首謀者とされ、退学処分となった。この事件では三木の雄弁が悪い結果をもたらしたことになる。 久吉は退学処分を受けた三木を厳しく叱りつけ、タカノは近親者に対して子の行く末を案じると漏らしていた。本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。中外商は1922年(大正11年)3月に認可され、同年5月から授業が開始されたという三木の編入当時はまだ歴史の浅い学校であった。当初大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。徳島の名門校から無名に近い学校への転学を余儀なくされた挫折感や、故郷徳島を離れた孤独感を支えたのはやはり得意の弁論であった。大正14年の近畿中等学校弁論大会で第一席となっている。1926年(大正15年)3月、中外商を卒業。
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