家臣筆頭と永代家老とは? わかりやすく解説

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家臣筆頭(首席家老)と永代家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「家臣筆頭首席家老)と永代家老」の解説

与板在封期のごく初期家臣筆頭勤めた倉地惣領家が本藩長岡藩帰参後は、牧野八郎左衛門家が家臣筆頭格であった。この牧野八郎左衛門家は与板分地されて以来明治維新まで続いた永代家老の家である。 筋目家柄尊ぶ本藩長岡藩であっても家老首座連綿稲垣氏稲垣平助家)の当主若輩のときは、山本氏山本帯刀家)が家臣筆頭役を勤めており、支藩与板小諸でも若輩者は、家臣筆頭格家柄であっても家臣筆頭役(首席家老筆頭家老)は勤めなかった。牧野八郎左衛門家が不動家臣筆頭格であったときに、当主幼少若輩のときは、加藤六郎兵衛家が家臣筆頭役(首席家老筆頭家老)を勤めていた。 牧野八郎左衛門家の当主は、家老職に必ず就任する慣行があったが、若輩のときは、役職では用人側用人甘んじることもあったが家禄保障されていた。 しかし、享保6年1721年6月家督相続から、牧野八郎左衛門家の家禄実際に就任している役職加味され増減するようになった牧野八郎左衛門家が、享保6年1721年)と寛政6年1796年)に懲戒処分を受け家柄格式下がってからは、家老職就任しても、上席家老家臣筆頭役(筆頭家老首席家老)に就任できないこともあった。享保6年当主20歳死亡時に跡取りがなく、その死後になってから、養子相続願い出た一件以来牧野八郎左衛門家は他の重臣横並びとなり、家臣筆頭連綿家柄ではなくなり、家臣筆頭役目は、事実上、有力諸士交代制慣行となった牧野八郎左衛門家は改易取り潰し危機脱したが、この影響でしばらく家老職から遠ざかった加藤六郎兵衛家も小諸入封後に、末期養子迎え享保期には、与板在封期以来家老家柄3家(牧野真木加藤)のうち、2家(牧野加藤)が養子相続不手際から格式下げたこの間隙に、並ぶ者がなくなった真木氏家臣筆頭首席家老)となり権勢振るって家禄400石級以上となった真木氏退役時に家を分け次の真木氏当主家老見習いとなり、後任稲垣氏家臣筆頭になった稲垣氏退役後に真木氏家臣筆頭となった。 また寛政年間藩主・康周の庶子1人である康那が家臣取扱となり、家老上席となった家臣筆頭となったとする記録はない。 一方では、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長家祖とする牧野氏(すなわち馬場町牧野隼人成聖家系)は、班を進めて享保年間には、城代家老勤めたが、他方牧野八郎左衛門家は、当主死後養子迎えたことで家柄格式が下がり本家と分家の藩内序列逆転していた。 牧野八郎左衛門家は、末期養子続いて、その孫の代(寛政6年)に、金(かね)をめぐる問題で再び重い懲戒処分を受け、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長家祖とする牧野氏(すなわち馬場町牧野隼人成聖家系)も、縁坐家臣筆頭役を勤めるのは困難であっただけでなく、まもなく病身となり対象から外れ真木氏3度家臣筆頭役・首席家老となった寛政8年1796年以降は、代替わりした真木氏が、病身ありながら36年間に渡り当主であり続けたため、重臣から長く外れ稲垣氏寛政8年1796年)から文化元年1804年)まで家臣筆頭役を勤めたとみられるが、改易取り潰しとなった文化元年1804年稲垣氏改易取り潰し後に、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長家祖とする牧野氏(すなわち馬場町牧野隼人成聖祖父成章)が家臣筆頭役となった。また文政年間に、加藤六郎兵衛成徳功労加藤氏父祖以来格式をほぼ回復して持高227となった。これ以降は、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長家祖とする牧野氏(すなわち馬場町牧野隼人成聖及び、父の成裕・祖父の成章の3代)と、これに次ぐ持高格式回復していた加藤氏成徳成美親子)が家臣筆頭役を勤めた期間が、ほとんどであった。 よって寛政年間以降首席家老など家臣筆頭役は、真木)則陽、稲垣正良、牧野成章(勝兵衛家)、加藤成徳牧野成裕(勝兵衛家・通称主鈴)、牧野成澄(八郎左衛門家)、牧野成聖(勝兵衛改め隼人進)、牧野成道八郎左衛門家)、牧野隼人成聖再勤加藤成美の順であった。ただし、連綿する家の格式序列家臣中、第3席まで回復させた牧野八郎左衛門成澄の家臣筆頭役の就任は、引責隠居のため、比較短かった出兵しながら目標となる天狗党遭遇できないまま、小諸領内通過させてしまい、帰還した責任)。その惣領である牧野八郎左衛門成道は、家督相続をした数年後に、家臣筆頭役に就任したが、この人事は、本藩である長岡藩調停によって否定されているため、就任そのものが、初めから無効とされている可能性があるが、仔細不明就任有効なものであったとしても、数か月間である。その後牧野隼人成聖再勤となった明治2年9月加藤成美失脚入牢後は、小諸家臣から、家臣筆頭だけでなく、家老当の役職も、選任せずに、これに対応する大参事は、本藩である長岡藩から招聘した。招聘され大参事は、当初野嘉兵衛小倉一郎であったが、野嘉兵衛は、数か月長岡帰参し、かわって長岡藩着座家抜擢家老や、年寄中老就任したことがある家系)の出自である三間市之進着任した

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