家臣筆頭(首席家老)と永代家老
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「家臣筆頭(首席家老)と永代家老」の解説
与板在封期のごく初期に家臣筆頭を勤めた倉地惣領家が本藩長岡藩に帰参後は、牧野八郎左衛門家が家臣筆頭格であった。この牧野八郎左衛門家は与板に分地されて以来、明治維新まで続いた永代家老の家である。 筋目・家柄を尊ぶ本藩長岡藩であっても、家老首座連綿の稲垣氏(稲垣平助家)の当主が若輩のときは、山本氏(山本帯刀家)が家臣筆頭役を勤めており、支藩の与板・小諸でも若輩者は、家臣筆頭格の家柄であっても、家臣筆頭役(首席家老・筆頭家老)は勤めなかった。牧野八郎左衛門家が不動の家臣筆頭格であったときに、当主が幼少・若輩のときは、加藤六郎兵衛家が家臣筆頭役(首席家老・筆頭家老)を勤めていた。 牧野八郎左衛門家の当主は、家老職に必ず就任する慣行があったが、若輩のときは、役職では用人や側用人に甘んじることもあったが家禄は保障されていた。 しかし、享保6年(1721年)6月の家督相続から、牧野八郎左衛門家の家禄も実際に就任している役職も加味されて増減するようになった。 牧野八郎左衛門家が、享保6年(1721年)と寛政6年(1796年)に懲戒処分を受け家柄・格式が下がってからは、家老職に就任しても、上席家老や家臣筆頭役(筆頭家老・首席家老)に就任できないこともあった。享保6年、当主の20歳死亡時に跡取りがなく、その死後になってから、養子相続を願い出た一件以来、牧野八郎左衛門家は他の重臣と横並びとなり、家臣筆頭連綿の家柄ではなくなり、家臣筆頭の役目は、事実上、有力諸士の交代制が慣行となった。 牧野八郎左衛門家は改易・取り潰しの危機を脱したが、この影響でしばらく家老職から遠ざかった。加藤六郎兵衛家も小諸入封後に、末期養子を迎え、享保期には、与板在封期以来の家老の家柄3家(牧野・真木・加藤)のうち、2家(牧野・加藤)が養子相続の不手際から格式を下げた。 この間隙に、並ぶ者がなくなった真木氏が家臣筆頭(首席家老)となり権勢を振るって家禄400石級以上となった。真木氏は退役時に家を分け、次の真木氏当主は家老見習いとなり、後任に稲垣氏が家臣筆頭になった。稲垣氏退役後に真木氏が家臣筆頭となった。 また寛政年間、藩主・康周の庶子の1人である康那が家臣取扱となり、家老上席となったが家臣筆頭となったとする記録はない。 一方では、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長を家祖とする牧野氏(すなわち馬場町・牧野隼人進成聖の家系)は、班を進めて享保年間には、城代家老を勤めたが、他方の牧野八郎左衛門家は、当主の死後に養子を迎えたことで家柄・格式が下がり本家と分家の藩内序列が逆転していた。 牧野八郎左衛門家は、末期養子に続いて、その孫の代(寛政6年)に、金(かね)をめぐる問題で再び重い懲戒処分を受け、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長を家祖とする牧野氏(すなわち馬場町・牧野隼人進成聖の家系)も、縁坐で家臣筆頭役を勤めるのは困難であっただけでなく、まもなく病身となり対象から外れ、真木氏が3度、家臣筆頭役・首席家老となった。寛政8年(1796年)以降は、代替わりした真木氏が、病身でありながら36年間に渡り当主であり続けたため、重臣から長く外れ、稲垣氏は寛政8年(1796年)から文化元年(1804年)まで家臣筆頭役を勤めたとみられるが、改易・取り潰しとなった。 文化元年(1804年)稲垣氏の改易・取り潰し後に、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長を家祖とする牧野氏(すなわち馬場町・牧野隼人進成聖の祖父成章)が家臣筆頭役となった。また文政年間に、加藤六郎兵衛成徳の功労で加藤氏が父祖以来の格式をほぼ回復して、持高227石となった。これ以降は、牧野八郎左衛門家の分家である牧野庄兵衛正長を家祖とする牧野氏(すなわち馬場町・牧野隼人進成聖及び、父の成裕・祖父の成章の3代)と、これに次ぐ持高・格式に回復していた加藤氏(成徳・成美親子)が家臣筆頭役を勤めた期間が、ほとんどであった。 よって寛政年間以降の首席家老などの家臣筆頭役は、槇(真木)則陽、稲垣正良、牧野成章(勝兵衛家)、加藤成徳、牧野成裕(勝兵衛家・通称は主鈴)、牧野成澄(八郎左衛門家)、牧野成聖(勝兵衛改め隼人進)、牧野成道(八郎左衛門家)、牧野隼人進成聖の再勤、加藤成美の順であった。ただし、連綿する家の格式・序列を家臣中、第3席まで回復させた牧野八郎左衛門成澄の家臣筆頭役の就任は、引責隠居のため、比較的短かった(出兵しながら目標となる天狗党に遭遇できないまま、小諸領内を通過させてしまい、帰還した責任)。その惣領である牧野八郎左衛門成道は、家督相続をした数年後に、家臣筆頭役に就任したが、この人事は、本藩である長岡藩の調停によって否定されているため、就任そのものが、初めから無効とされている可能性があるが、仔細は不明。就任が有効なものであったとしても、数か月間である。その後、牧野隼人進成聖の再勤となった。 明治2年9月、加藤成美失脚・入牢後は、小諸家臣から、家臣筆頭だけでなく、家老相当の役職も、選任せずに、これに対応する大参事は、本藩である長岡藩から招聘した。招聘された大参事は、当初、梛野嘉兵衛・小倉伺一郎であったが、梛野嘉兵衛は、数か月で長岡に帰参し、かわって長岡藩の着座家(抜擢家老や、年寄・中老に就任したことがある家系)の出自である三間市之進が着任した。
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