宗村家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:45 UTC 版)
平田家から養子に出た一族の宗村家が経営者となる。平田紡績の全盛期で、宗村佐信が経営者であった。 太平洋戦争による軍需工場化による製網業などの経済活動が停止された会社の危機を経て、1948年(昭和23年)12月に、平田紡績の株式を(東京証券取引所・大阪証券取引所・名古屋証券取引所)の各証券取引所に上場して(資本金3,000万円)に増資した。 1949年( 昭和24年)7月に、繊維業界初の合成繊維漁網の製造を開始した。 1950年(昭和25年)4月に、正式社名を平田紡績株式会社に戻して通称を平田紡績と改称した。天ヵ須賀地内に紡績部門、高松地内に漁網部門の生産を再開した。1952年(昭和27年)ころには漁網生産高は戦前のレベルに達して、一時は生産高が全国の4割を占めて、川越村内に関連の家内工業や内職の仕事が増加した。紡績部門も昭和30年代に最盛期を迎えたが、昭和40年代に輸出の不振で生産高は下降線をたどった。 1951年(昭和26年)11月に、昭和天皇が平田紡績富洲原工場を視察する。伊勢行幸によるもので、平田紡績社長の宗村佐信が説明役となった。 1955年(昭和30年)11月に、 北海道函館市に、函館漁網工場の建設をした。 1958年(昭和33年)12月に、 福島県いわき市に福島漁網工場の建設をして平田紡績の工場生産は東日本に拡大して全国的な企業となり三重県以外の工場で生産をする事となった。 1964年(昭和39年)6月に、資本金を7億5600万円に増資した。 1964年(昭和39年)12月に、タンザニアに合弁会社のムワンザ漁網製造株式会社を設立する。 1966年(昭和41年)7月に、函館第2漁網工場を建設する。 1970年(昭和45年)5月には、アフリカ大陸のケニアに合弁会社のケニヤ漁網工業株式会社を設立して海外生産をするようになった。資本の自由化を前に日本企業として外資と提携して合弁会社の設立をした。平田紡績は昭和40年代には、ウガンダ漁網を現地で設立して実績をあげた。1970年(昭和45年)になってからナイジェリアとケニアに進出を決定して、秋ごろに会社設立と年内生産開始を目途に、工場を建設した。ナイジェリアに建設したナイジェリア漁網は、以下の企業により設立された企業である。 現地法人のCFO 伊藤忠商事 旭化成 平田紡績 以下の企業の共同出資による合弁会社であった。 出資比率は以下である。 CFO35% 伊藤忠商事と旭化成17.5% 残りの47.5%が平田紡績の割合である。 ナイジェリア漁網の社長は平田紡績出身者であった。1970年(昭和45年)に2億5000万円の生産体制でナイロン漁網生産を行った。ケニア工場は平田紡績(出資比率50%)とアブダリ・ガリティー社(出資比率50%)との合弁会社で、同じくナイロン生産を行った。毎月の生産が5000万円が目標であった。現地ケニア事情に明るい平田紡績輸出課長の清水謙一郎が合弁会社の社長となり、現地ケニアで工場建設の指揮をとった、昭和40年代に、国内市場における漁網生産はコスト高に悩み、後進国の大韓民国や台湾に押され気味であった。ドル箱の海外市場でさえ(東南アジア諸国の漁網生産)に脅かされる破目に陥った。そこで直接現地に生産工場をつくり、安い工賃で生産のピッチを向上させると同時に販路を拡大を図ろうと、以下の海外の生産拠点の工場を新規に建設した。 ウガンダ工場 ケニア工場 ナイジェリア工場 タンザニアのムワンザ工場 以上の平田紡績が発展途上国に対する技術支援として建設したアフリカ大陸に進出した平田紡績の合弁企業の工場。 海外進出をする方法で外国に工場を建設する現状打開策がとられた。 これによって生産基盤と海外市場と国内市場の安定を確保していく方針であった。ウガンダ漁網は着々と実績を伸ばしていた。 1973年(昭和48年)6月に、青森県八戸市に八戸漁網仕立工場を建設する。 1981年(昭和56年)10月 に、平田工機株式会社(現在の連結子会社)を設立した。
※この「宗村家時代」の解説は、「平田紡績」の解説の一部です。
「宗村家時代」を含む「平田紡績」の記事については、「平田紡績」の概要を参照ください。
- 宗村家時代のページへのリンク