報償契約問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 00:16 UTC 版)
「大阪市営電気供給事業」の記事における「報償契約問題」の解説
市営電車開業前の1902年(明治35年)、大阪市では市営による水上交通機関の整備が計画されていた。当時大阪市は市域の拡張(1897年)や人口の集中、上下水道事業・築港事業の実施などにより経費が増大し財政が悪化していたため、市営事業を経営して市費の一部を補おうとしたのである。結局この計画は実現しなかったが、代わりに大阪巡航との間に報償契約を締結し、会社が収入の一部を報償金として市に支払い、なおかつ市の監督を受けることを条件に市は会社の営業区内における事業の独占を保証することとなった。続いて大阪市は、市内への都市ガス供給を計画する大阪瓦斯との報償契約締結に動き出し、翌1903年にこれを実現させた。 大阪瓦斯との間に報償契約を締結すると、市は次の目標を大阪電灯に定めた。1903年11月、市の参事会が大阪電灯との報償契約を締結すべきという旨を決議したのである。これを受けて大阪市長鶴原定吉は大阪電灯社長土居通夫を市役所に招いて報償契約の締結を提案し、一方の大阪電灯側は市の要求にある程度応じる方針を固めた。市の提案は、会社側が純利益の5%相当を市に納付するとともに市による経営監督を受ける、かつ1919年以降に電灯事業を市営化する権利を認めるという条件で、市側は道路その他の無償使用と電灯事業における会社の独占を認める、という内容であった。これに対して大阪電灯は、電灯・電力収入のうち2%を納付する、契約期間を50年として市営化の権利を認めない、などの修正を加えた修正案を翌1904年6月に市へ提出した。この修正案は市の認めるところとならず、8月会社側へさらなる修正案を提出。市の修正案もまた会社側の賛成を得られず、10月に会社側の2度目の修正案が市へと提出された。 このように報償契約交渉は停滞したが、鶴原市長の辞意表明につき高崎親章大阪府知事から早期締結の要望が出、知事の斡旋もあり1905年(明治38年)7月に仮契約の締結へと漕ぎ着けた。この仮契約は大阪電灯の株主総会では原案通り可決されたものの、一方の大阪市会では修正案の可決となり、修正案を会社側が拒否したため交渉はついに中断された。上記の市営電気供給事業に関する建議案が市会にて可決された(1906年1月)のは、こうした状況下での出来事である。 市営電気供給事業が現実味を帯びるにつれ、大阪電灯側の態度は妥協的なものになっていった。数度の折衝ののち鶴原の後任市長山下重威と社長の土居らの間で契約案が作成され、1906年7月に市会により修正案が可決、大阪電灯の株主総会も修正案を承認した。これにより7月28日、大阪市と大阪電灯との間で報償契約が締結されるに至った。 報償契約の主な内容は以下の通り。 大阪電灯は市関連施設の電灯料金を20%減額する。 大阪電灯は報償金を市へ納付する。金額は、5年間の大阪市内電灯料金収入の平均額に対して下記の比率に相当する金額より電柱・埋設線管の敷地に関する大阪府への納付金(最高3,000円)を控除した残額。年額100万円までの場合、6%。 年額100万円以上200万円未満の場合、100万円を超過する額に対しては4%。 年額200万円以上の場合、200万円を超過する額に対しては2%。 大阪電灯は電灯事業に関する年次報告書を市へ提出する。 大阪電灯は市の立ち入り検査を受け入れる。 大阪電灯は電灯料金を引き上げる場合、事前に市の承認を得る。また水力発電による電力を使用する場合は電灯料金引き下げについて市と事前に協議する。 大阪電灯は市の要求に応じて電灯線路を延長する。 大阪市は大阪電灯の電灯事業に対して特別税や道路使用料などを徴収しない。 大阪市は大阪電灯による電柱や埋設線管などの設置を目的とする道路などの使用を承認する。 大阪市は市営の電灯事業を経営しない。大阪電灯以外の電灯事業者による道路などの使用を認めない。 大阪電灯は1922年1月1日以降に市が事業の買収を希望する場合はそれに応ずる。 このように大阪市は大阪電灯の事業を規制し負担を求める代わりに、大阪市内における電灯供給事業を大阪電灯が独占することを承認することとなった。ただし独占の保証は電灯供給事業のみに関するもので、電力供給事業については報償契約の範囲外に置かれ、大阪電灯による事業の独占に保証を与えていない。
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