坂者との混同・異同
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 07:10 UTC 版)
前期、康永3年の「感神院所司等申状案」には「為社恩死賜非人之間、号犬神人、所相従祭礼以下諸神事也」と、祇園社の領域に居住する非人は犬神人であるということになっている。いわば論理の転換・拡大であるといえ、戦国時代から近世にかけての犬神人は弓矢町に集住していたが、南北朝期にはまだ三条~五条の広い範囲に渡っており、「宮川分犬神人」などがいる。また、関連は不明だが「犬法師」と呼ばれる者もあった。 この時代、犬神人と清水坂の坂者が同一視されていた。『師守記』貞治三年(1364年)三月十四日条に、犬神人を別の所で坂者と称している。文和2年(1353年)、『八坂神社文書』1246号には、犬神人は山門西塔釈迦堂寄人で、ともに職掌人であると称しているが坂には触れていないが、同文書1253号には永正七年頃、「当坂者事、山門西塔院転法輪堂寄人、祇園御社犬神人」とあり、坂者と犬神人は同一のものであると同時に転法輪堂寄人となっている。 寛元2年(1244年)以前から奈良坂と激烈な闘争(奈良坂・清水坂両宿非人争論)を繰り広げていた「清水坂非人」集団と犬神人とが同じであるかどうかは不明である。しかし、承久の乱前に清水坂非人の先長吏法師を殺そうとした帳本の阿弥陀法師が祇園林に籠居して祇園を号したことから、坂非人の一部が犬神人になっていた可能性がある(宮内庁書陵部蔵、年月日未詳、「奈良坂非人陳状案断簡一通)。更には建保元年(1213年)に清水寺を延暦寺の末寺に寄進しようと「乞食法師」が諜書をつくり画策した事も無関係とは言えない(『明月記』)。 正平7年(1352年)頃の犬神人は宿老、奉行を選出して集団を為しており、しかも「諸国犬神人」も存在した。これが犬神人の組織したものか、坂非人と同一化することで坂支配下の諸国末宿を諸国犬神人としたのかは判らない。前記永正7年頃の申状には、西岡宿者は譜代百姓とあり、宿者全てが諸国犬神人になったとは考えられない。よって、清水坂非人と犬神人との実態が同一化したとて、犬神人の感神院―祇園社下級神職=職掌人としての身分と、上下京の葬送・乞食の支配権を有した坂非人のの区別は守られていた。文安2年(1445年)東寺は三昧輿を使用して葬送を実施する権限を坂非人によって承認され、遺体の移動・火葬を坂に任せている。この定書には坂の執行部たる薩摩以下七名の署印花押がしてあり、また、坂之公文所(坂惣衆公文所)・沙汰人=奏者、奉行・坂番頭中などの署名があり、これらが坂執行部と見られる。下部の非人との関係は不詳だが、犬神人の構成員と重複したとしても組織としては別物であった。 江戸時代においても非人銭請受は「坂豊後」でなされており(『八坂神社文書』1242号)、坂非人と犬神人は使い分けられていた。 犬神人は上下京の葬送県を独占していたといわれ、その起源は祇園の神輿渡御の道路清掃に基づくという説がある。だが神輿渡御や祇園祭礼は下京のみであるため、上下京に渡る独占の根拠とは考えにくい。『部落史用語辞典』では葬地と葬送従事に基づく独占であると推測している。既に文永12年(1275年)叡尊の非人施行に当たっての非人長吏の起請文の第一条に、葬送の時に身に付けた具足を取っても葬家に言って責め取ってはならぬと箇条があり、それが坂非人と犬神人との同一化の結果、神輿渡御の不浄物撤去に原因を求める説ができたのだろうとしている。また、東西本願寺門主の葬式には、宝来=犬神人=つるめそが、祇園祭礼と同じ服装で先導を務め、荼毘の事を行っているが、これも坂非人と犬神人との同一化の結果だろうとしている。
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