地理と行政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 05:05 UTC 版)
アンジュー帝国が最大領域を誇っていた頃には、イングランド王国、アイルランド太守領、ノルマンディー、ガスコーニュ、アキテーヌ(ないしはギュイエンヌ)の各公国、アンジュー、ポワトゥー、メーヌ、トゥレーヌ、サントンジュ、ラ・マルシュ、ペリゴール、リモージュ、ナント、ケルシーの各伯領から成り立っていた。この中の幾つかの公国や伯領は同時にフランス王の封臣であった。 プランタジネット朝はまた、ブルターニュとコーンウォールの両公国、ウェールズ諸侯、トゥールーズ伯、スコットランド王国を影響下においていたが、これらは帝国には含まれない。ベリーとオーヴェルニュも帝国の主権下にあると主張していたが、これらは満たされていなかった。 フランス王領・ノルマンディー公国間の国境はよく知られており、容易に描くことができる。その一方で他の土地では曖昧であった。特にアキテーヌの東方国境地帯がそうであり、そこではヘンリー2世と後のリチャード1世獅子心王が主張していた国境と、実際に彼らの権力が及ぶ範囲には、しばしば隔たりがあった。アンジュー帝国の最も重要な特徴の一つとして「polycratic(=多権力性)⇔monocracy(独裁)」がある。この言葉は、アンジュー帝国のある臣民が書いた最も重要な政治的パンフレットが由来である、つまりジョン・オブ・ソールズベリ(ソールズベリのヨハンネス)の『Policraticus』である。 イングランドは徹底した統治下に置かれ、恐らくは最も統治が行きとどいた場所であった。王国は州長官(治安判事)が統治する州に分けられて法令が強いられた。国王が不在の間は名声があるものが最高行政長官(大法官・ユスティティエ)に任じられた。イングランド王は大概はイングランドよりもフランスに滞在し、他のアングロ・サクソンの諸王よりも膨大な令状を用いた。奇妙なことに、このことは他の何よりもイングランドを助けることになった。ウィリアム1世征服王の許ではアングロ・サクソン系貴族はアングロ・ノルマン人系貴族に取って替わられた。ただし、アングロ・ノルマン系の貴族はかなりの大きさの連続した土地を所有できなかった(離れた所にしか所領を持てなかった)ので、貴族達が国王への反逆を起こすのをより一層困難にしたと同時に、自分達の土地すべてを一時に防衛するのを困難にもした。イングランドの 伯(Earl) (アングロ・サクソン由来のエアルドルマンに任じられたもの)は大陸にも同様に伯(count) 領(カール大帝由来のコント・伯)を有した。しかしながら彼らの中で国王に勝る者はいなかった。 大アンジューでは例えばプレヴォ(代官)en:prévotsやセネシャル(家令)en:seneschalsといった2つの種類の役人によって統治されていた。これらの役人・役所はトゥールーズ、シノン、ボージェ、ボーフォール、ブリッサク、アンジェ、ソミュール、ルーダン、ロシュ、ランゲー、モンバゾンなどに設置されていた。しかしながら他の地域ではプランタジネット家の行政下に置かれておらず、他の一門によって統治されていた。例えばメーヌは当初は大部分の地域が自治され、行政機構を欠いていた(他の家門が統治している地域にはアンジュー家は介入できなかった)。そこでプランタジネット家はル・マンのセネシャルseneschal of Le Mansに代表されるような新しい行政官を任じることによって行政機構の改善を図ろうと努めた。これらの改善策は余りにも遅過ぎたが、カペー家が大アンジューを吸収した後にその恩恵に与ることになった。 ガスコーニュの統治は大変緩やかで、アントル・ドゥ・メール(字義は二つの海の間だが、ドルドーニュ川からガロンヌ川までの間の地域)、バイヨンヌ、ダクスにだけ滞在している役人たちと、さらにサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路とガロンヌ川の水路をアジャンのあたりまで管理する役人たちとを設置していただけだった。ガスコーニュの残りの地方は行政下に置かれず、それらの大部分は他の地域と同じ程度だった。かつてのポワティエ家の公のようにアンジュー家が全公国に自らの権威をもたらすのは難しかった。ガスコーニュは支配者には魅力がなかった、というのもその景観がひとつの理由であり、もうひとつは強固な統治をそこにもたらすことが難しいことである。 ポワトゥーとギュイエンヌでは城はギュイエンヌに集中していた。そこには公的な代理人がいたが、その一方で東方のペリゴールとリモージュにはいなかった。加えて、これらの地域では領主はあたかも主権をもった小君主のようにして統治し、貨幣を打造するなどして領地に自分達の力を誇示した。リチャード1世獅子心王 自身がリモージュで死去している。 ノルマンディーはアンジュー帝国下では恐らく最も重要な行政地の一つである。プレヴォ(代官)Prévotsと副伯(ヴィコント)は裁判権と死刑執行を司るバイイの前に自分達の有利な立場を失った。彼等は12世紀頃にノルマンディーに導入され、イングランドの治安判事のように組織化された。フランス王領とノルマンディ公領の国境ではノルマンディー公の力は強大だったが、他の地域ではより緩やかだった。 アイルランドにはアイルランド太守領がおかれたが、当初はその統治には困難が伴った。ダブリンとレンスターではアンジュー家の支配が強化され、コークとリムリックとレンスターではアングロ・ノルマン系貴族に支配された。 アキテーヌとアンジューでは公および伯の権威が存在はしていたが、それぞれの領域内は均質ではなかった。例えば、これらの地域(ポワトゥーやラ・マルシュ)ではリュジニャン家がとても有力で、プランタジネット家への重要な対抗馬であった。 スコットランドは王国から独立していたが、ウィリアム1世獅子王によって引き起こされた遠征で打撃を蒙り、ファレーズ協定 に基付いて南スコットランドに駐留したイングランド軍は彼の地にエディンバラ、ロクスバラ、ジェドバラ、ベリックの各城を築いた。 トゥールーズはアキテーヌ公の封臣であるトゥールーズ伯によって支配されていたため間接的な支配であったし、トゥールーズ伯がアキテーヌ公に従うことはまれであった。ケルシーのみがプランタジネット家の直接の支配下に置かれていたが、たびたび係争地となった。 伝統的に貴族の独立性が強いブルターニュではプランタジネット家による支配が強化された。(ブルターニュ伯・公はノルマンディー公の封建的家臣であった)ナント はアンジュー家の支配下にあったのは疑う余地のないが、その一方でプランタジネット家自身がブルターニュの様々な出来事に干渉し、大司教の設置(ドル・ド・ブルターニュ司教座を大司教座に昇格させトゥレーヌ地方にあるトゥール大司教座のトゥール大司教管区からブルターニュの九つの司教区を独立させようとしていた)などを通じて権威を押し付けた。 ウェールズはプランタジネット家と良好な関係を保ち、彼らに臣従を誓って領主と認めるものの、ほとんど自治を行っていた。ウェールズはプランタジネット家にナイフとロングボウを提供し、これらは後にイングランドに多大な成功をもたらした。
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