吉田清治に関する記事
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1982年9月2日、朝日新聞大阪本社版朝刊社会面に「朝鮮の女性 私も連行」という見出しで、「済州島で一週間に二百人の若い朝鮮人女性を狩りだした」等の「従軍慰安婦狩り」について具体的に証言した吉田清治の講演内容を扱った記事を書いた。「強制連行」という言葉を何度も用いたこの記事は、吉田清治を最初に取り上げた新聞記事とされるが、「朝鮮人慰安婦は皇軍慰問女子挺身隊という名で戦線に送りだした」など、そもそも吉田の証言内容は事実に反するものであった。これについて、32年後の2014年8月5日、朝日新聞による特集記事の中で、「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」ために裏付け取材を行っておらず、その結果、証言が虚偽であることを見抜けなかったと認めた。これにより当該記事は取り消されたが、この件に関する週刊文春の取材に対しては、「思いはあるが、会社の結論なので異存はない。削除とか一部誤報という結果を受け止めているだけ」と話すのみで、自身の誤報に対する反省の言葉はなかったとされる。2014年9月29日、朝日新聞はこの「吉田証言」初報記事を書いたのは別人だったとする訂正記事を掲載した。海外への渡航記録から大阪で吉田の講演があった1982年9月1日に国内にはおらず、特集記事での話は記憶違いだったことが確認されたとしている。実際の執筆者として大阪社会部の別の元記者が、「自分が書いたかもしれない」と名乗り出ているという。 1983年11月10日の朝日新聞全国版朝刊3面「ひと」欄において、署名記事で吉田清治を取り上げ、吉田の顔写真には「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる吉田清治さん」とのキャプションを付けた上で、「でもね、美談なんかではないんです。二人の息子が成人し、自分も社会の一線を退いた。もうそんなにダメージはないだろう、みたいなものを見定めて公表に踏み切ったんです」「国家による人狩り、としかいいようのない徴用が、わずか三十数年で、歴史のヤミに葬られようとしている。戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」といった吉田の言葉を紹介した。 1997年3月31日、一連の報道を含めた朝日新聞の慰安婦報道への批判の高まりを受けて、「従軍慰安婦 消せない事実」「政府や軍の深い関与、明白」との大見出しで特集記事を掲載した。この記事では「吉田証言」について、当人の面会拒否や済州島における現地取材で裏付けが得られなかったにも関わらず虚偽であると判断されることはなく、ただ「真偽は確認できない」と表記しただけで記事の訂正も取り消しもなされなかった。また、この特集記事中では朝鮮半島における慰安婦問題の原点とも言える「強制連行」の言葉が使われておらず、代わりに「無理やり」「軍の指示・関与」等の表現を用いることで、いわゆる広義の「強制性」という概念を打ち出して論点をすり替えた、との批判もある。この時の外報部長が清田だったとされているが、元朝日新聞論説委員で当時は外報部次長として清田の部下であったという長岡昇は、「『過ちを率直に認めて謝罪する道』を自ら閉ざした」と評している。
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