合弁事業構想の破綻
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発起人総会に続き、日英水力電気発起人は1908年7月10日付で電気事業経営許可を得た。逓信省の資料によるとその許可内容は、静岡県志太郡東川根村(現・川根本町)大字梅地にて大井川による最大出力2万7000キロワットの水力発電所を建設し、東京府のうち東京市・荏原郡品川町・同目黒村・豊多摩郡内藤新宿町・同淀橋町・同中野町の6市町村(いずれも現・東京都区部内)を電力供給区域とする、というものであった。また具体的な供給先として、会社未成立にもかかわらず東京鉄道(都電の前身)に対する電力供給も契約した。 会社設立にあたり、資本金は親会社日英共同株式会社が100万円、事業会社日英水力電気が1250万円と設定された。また日英の出資比率は両社とも1対1とされた。第1回発起人総会では2か月後の1908年8月20日までに第1回払込金を徴収すると決定されたが、当時の日本は日露戦争後の戦後恐慌が発生しており、期限までに12万5000株の発行予定に対し7万株余りの応募しか集まらず、第1回払込は延期となった。またイギリス側では会社設立登記以前に4分の1以上の株式払込を要するという日本の商法についての理解がなく、資金の用意が足らずこちらも払込ができなかった。 株式募集の失敗に加え、大型ダム建設に対する古市公威・中山秀三郎ら土木工学の専門家からの反対意見もあり、翌1909年(明治42年)2月に日本側発起人は一旦事業中止を決定した。この決定に対し、イギリス側は事業の継続を望み、株式のおよそ5分の4をイギリス側で発行すること、ダムの規模を縮小することの2点からなる修正案を日本側に掲示する。そのため同年3月1日の第2回の発起人総会では、事業の継続の確認とイギリス中心の株式募集が決定された。ところがこの構想も、株式の発行銀行となる見込みであった日本興業銀行とロンドン所在の3銀行の意見が一致せず頓挫してしまう。 日英水力電気の起業が停滞する一方、東京への供給を目標とする大規模水力開発計画がそれ以外にも進行しつつあった。鬼怒川(栃木県)での水力発電を目指す鬼怒川水力電気(1910年10月設立)、桂川開発を目指す桂川電力(1910年9月設立)、日橋川(福島県)での発電所建設を目指す猪苗代水力電気(1911年10月設立)である。3社のうち鬼怒川水力電気については、1909年9月、兼営電気供給事業を始めていた東京鉄道との間に供給契約を締結した。契約高2万馬力という大規模なもので、先に日英水力電気発起人が東京鉄道と締結していた同種の供給契約は実質的に失効した。 会社設立への模索が続く日英水力電気では、新たにロンドンのスパーリング商会を中心とする新シンジケートを追加した、イギリス側主導の大規模親会社設立案の交渉が進められていたが、ここで競合会社の脅威が大きいこと、電灯供給権がなく販路が限られる点などが問題となる。日本側発起人ではイギリス側の指摘する問題点を減らすべく努力し、競合会社であった鬼怒川水力電気との合同を目指すものの、交渉の末鬼怒川水力電気は合同を拒絶した。それを受けて日本側発起人はイギリス側との交渉が妥結に至る可能性が消滅したと判断、1910年(明治43年)7月28日の創立委員会にて日英合弁事業を断念する方針を決定した。
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