合併後の状況
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現況については#関連項目の各地区の記事を参照されたい。 広島市への編入合併後、旧草津町域はそのまま「広島市草津町」となり、旧草津町の大字であった草津・庚午新開は同市の大字に継承されてそれぞれ広島市草津町大字草津・同大字庚午新開となった。1933年には町名が変更され(大字)草津は草津東町・草津本町・草津南町・草津浜町などに分割、庚午新開は庚午町と改称された。 その後は一部を己斐・古江・高須に編入しながらも、1967年に庚午町などを再編し庚午北・中・南、1970年には草津東町・南町を再編して草津東・南がそれぞれ新設された。さらに1975年 - 77年には山地部の宅地造成により草津梅が台および鈴が峰町が新設され現在に至っている。現在は大字は使われていない。
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合併後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 16:03 UTC 版)
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合併後の状況
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現況については#関連項目の各地区の記事を参照されたい。 広島市への編入合併後、旧古田村域はそのまま「広島市古田町」となり、旧古田村の大字だった古江・山田は同市の大字に継承されてそれぞれ広島市古田町大字古江・同大字山田となった。その後、一部が草津・庚午・己斐に編入されたが、大字古江は1960年 - 70年に高須・田方・古江東町・古江西町・古江新町・古江上に分割、大字山田は山田町と改称された。その後山地部での宅地造成の進行により、1982年には山田新町、その後古田台が新たな町名として設置され現在に至っている。
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合併後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 19:28 UTC 版)
現況については矢賀地区を参照されたい。 広島市への編入後、旧矢賀村域はそのまま「広島市矢賀町」となった。1940年国鉄広島車輛工場(現在のJR貨物広島車両所)が起工、1942年には府中町と広島市大洲町(現在の南区大州)に挟まれた府中川西岸の低地が矢賀新町として分離した。 1972年の町名変更により、矢賀町は大部分が矢賀(一 - 六丁目 / 芸備線およびJR車両工場の近辺)・東山町(岩鼻を中心とする区域)などに分割され、現在は高天原火葬場を中心とする区域のみが住所表示「矢賀町」となっている。
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合併後の状況
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現況については己斐を参照されたい。 広島市への編入合併後、旧己斐町域はそのまま広島市己斐町となった。その後一部は隣接する庚午・高須の町域に編入されたが、1971年の町名変更で大部分が己斐本町・己斐東・己斐中・己斐西町・己斐上に分割、1981年には山地部の宅地化にともない己斐上の一部を分離して己斐大迫を新設し現在に至っている。現在「己斐町」という地名は、安佐南区長束町・沼田町との境界に接するごく狭い山林部の住所表示として、かろうじて存続している。
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合併後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 19:34 UTC 版)
現況については牛田地区を参照されたい。 広島市への編入後、旧牛田村域はそのまま「広島市牛田町」となった(しかし広範囲であるため便宜上、平地部を中心に牛田南町・早稲田・牛田旭町・牛田本町・牛田新町など下位の小地名に分けられていた)。 1970年の町名変更により上記の牛田町は大部分が牛田南・牛田東・牛田早稲田・牛田旭・牛田新町・牛田山・牛田中・牛田本町に分割、1974年には残りの町域が戸坂くるめ木に編入され、町名としての「牛田町」は消滅した。
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合併後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 19:30 UTC 版)
現況については#関連項目の各地区の記事を参照されたい。 広島市への編入合併後、旧三篠町域はそのまま「広島市三篠町」となり、旧三篠町の大字であった新庄・打越・楠木は同市の大字に継承されてそれぞれ広島市三篠町大字新庄・同大字打越・同大字楠木となった。1933年町名が変更され大字打越は打越町・山手町・中広町・南三篠町など、大字楠木は横川町・楠木町・三篠本町・大芝町など、大字新庄は新庄町・三滝町・山手町などにそれぞれ分割された。 しかし1932年に開始され65年に完成した太田川改修事業(福島川の大部分を埋め立て山手川を拡幅して太田川放水路とした)を通じて旧三篠町域の地形も大きく変化した。1962年には町域のほとんどが河川敷となった南三篠町に代わって小河内町が新設された。さらに1965年 - 67年には、改修された太田川(放水路)の左岸では三篠本町が三篠町・三篠北町などに分割、大芝町が大芝・大芝公園などに分割され消滅し、新たに横川新町・大宮が設置された。1970年には太田川右岸に三滝本町・三滝山・竜王町が新設され、現在の町名が出そろっている。
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合併後の状況
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合併後の状況については井口地区、鈴が峰住宅を参照のこと。 広島市への編入合併後、旧村域はそのまま「広島市井口町」となった。1968年には国道2号の混雑解消策として西広島バイパスが鈴が峰中腹に建設、さらに1971年には同バイパス南側に「鈴が台団地」が造成されるなど宅地化が進行した。前年70年にはバイパスと国道の間で町名変更が実施され井口町の大部分が井口・井口鈴が台に分割、一部が草津地区に編入された。その後海岸の埋め立てが進み、新町として井口明神が設置された。また山腹の宅地造成の進行で1977年には鈴が峰町、1985年に井口台が新設され、現在に至っている。井口町の名称は山林部の地区の住所表示として残っている。
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合併後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 20:57 UTC 版)
現況については戸坂 (広島市)を参照されたい。 広島市への編入合併後、旧戸坂村域はそのまま「広島市戸坂町」となった。1950年代半ば以降、桜が丘団地・百田団地・東浄団地の造成など宅地化が進行、1964年には広電バス戸坂線も開通して広島の近郊住宅地としての性格が色濃くなった。 こののち一部地域を牛田地区や中山地区に編入しながらも、1974年の町名変更により戸坂町の大部分が戸坂千足・くるめ木・山崎町・桜西町・桜上町・桜東町・中町・惣田・山根・数甲・出江・城山町・大上・南・新町に分割され、現町名が出そろった。現「戸坂町」は山林部を中心とした区域となっている。 広島市への合併により、それまでの戸坂村役場は市の戸坂出張所となり、政令市移行による東区発足後は「戸坂連絡所」として現・戸坂公民館に移転した。
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合併後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 21:02 UTC 版)
現況については中山地区を参照されたい。 広島市への合併後、旧中山村域はそのまま「広島市中山町」となった。1960年代半ば頃から鏡が丘団地の造成など宅地化が進行し人口が急増した。 旧村域の一部は矢賀地区・戸坂地区に編入され、1979年(昭和54年)の町名変更によって中山町は中山南・西・東・中町・鏡が丘・上・北町・新町などに分割され現在に至っている。
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