合併後の村名争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:10 UTC 版)
1889年(明治22年)、茨城県の命によって宮田村と滑川村の合併が決まる。前述のとおり、「日立」という名称に決定した経緯や理由を明確に記した文献や記録は存在していない。しかし、断片的な証拠の組合せと歴史編纂員が行った佐藤敬忠の末裔に対するインタビューを経て、2つの村の間で合併後の村名について争いが起き、佐藤敬忠が仲裁役的な役割を果たした事がおおよそ推定される。ちなみに、1939年(昭和14年)に日立町と助川町が合併して『日立市』となった際にも名称に関する争いが起きている。 市史編纂事業は日立市が主導して昭和30年代前半から取り組まれた事業であり、過去の資料や編纂員によるインタビューも収録されており、1959年(昭和34年)に公開された。編纂事業の過程において、佐藤敬忠の孫にあたる「佐藤みつ」氏にインタビューを行い、村名が「日立」に決まった過程において祖父の敬忠が仲裁役を果たしたこと、それらの記録を残した『佐藤家旧記』が存在したものの太平洋戦争の戦火で消失したことが明らかになった。
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