司馬穎・司馬顒の時代
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「恵帝 (西晋)」の記事における「司馬穎・司馬顒の時代」の解説
303年5月、司馬顒・司馬穎が司馬乂討伐の兵を挙げると、恵帝は詔を発し「司馬顒は独断で大軍を動員し、京都(洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍を率いて姦逆の臣を誅殺する。」と述べ、司馬乂に司馬顒・司馬穎の討伐を命じ、自らも軍を率いて洛陽城東から緱氏に入り、司馬穎の将軍牽秀を攻撃して撤退させるなどの活躍を見せた。しかし司馬乂の軍は司馬穎の軍に連戦連勝であったものの、戦闘が長期に渡ったため城内は食糧が欠乏してしまい、洛陽城内にいる東海王司馬越は司馬乂には勝ち目がないと判断して殿中の諸将と共に司馬乂を捕らえ、司馬穎らの軍に引き渡してしまった。これを聞いた恵帝は司馬乂の官を免じて金墉城に幽閉する旨の詔を発し、並びに司馬穎を丞相に任じた。その間に司馬乂は司馬潁の腹心の張方により処刑された。 2月、司馬顒の上書により、皇后羊献容・皇太子司馬覃を廃し、司馬穎を皇太弟とした。7月、東海王司馬越が右衛将軍陳眕・上官巳らと共に司馬穎討伐の兵を挙げると、恵帝は自ら軍を率いて親征を行った。司馬穎は配下の石超に防戦を命じ、石超の軍に蕩陰で奇襲を受けた皇帝軍は大敗を喫し、この時恵帝の頬にも三本の矢が当たって顔に傷を負った。百官や侍御は恵帝を見捨てて皆逃走したが、ただ侍中の嵆紹だけは身を挺して恵帝を守った。司馬穎の軍の兵が襲い掛かると嵆紹は乗輿から引きずり出され、恵帝は「忠臣である。殺してはならん!」と叫んだが、兵士たちは「太弟(司馬穎)の命では、犯してはならぬのは、陛下ただ一人としいわれております」と述べ命を無視した。雨の如く降り注ぐ矢により、嵆紹は遂に恵帝のすぐ側で射殺され、血飛沫が服に飛び散った。恵帝はその死を目の当たりにして、深く哀しみ嘆いたという。恵帝は馬車から転げ落ち、この時皇帝の玉璽を紛失したとされる。石超は恵帝の姿を見つけると陣営に連れ帰り、恵帝が飢えと渇きを訴えると、石超は恵帝を軽視していたので、水と季節外れの秋桃を与えたという。司馬穎は盧志を派遣して恵帝を鄴に迎え入れ、側近は血の付いた服を洗おうとしたが、恵帝は「これは嵆侍中の血である。拭き取ってはならん!」と声を荒げたという。 8月、都督幽州諸軍事王浚と東嬴公司馬騰は司馬穎討伐を掲げて決起すると、司馬穎はこれに連敗したので恵帝を連れて洛陽へ逃走しようと考えた。盧志が恵帝のいる部屋に入ると、恵帝は盧志へ「なぜ散敗したのに、朕の前に来たのか」と尋ねた。盧志は「賊は鄴城から80里の所に迫っており、人士は一朝にして驚き離散しました。太弟(司馬穎)は今、陛下を奉じて洛陽に還りたいと考えております」と応えると、恵帝は「甚だ良し」と答えた。こうして盧志らは恵帝の乗った犢車を御して鄴を出発した。だが、一行は金銭も物資も不充分な状況で出発したので、恵帝は詔を発して宦官が隠し持っていた銭三千を借り受け、道中で食物を得た。夜は恵帝も宦官と同じ布団を使い、食事は瓦盆に盛られるというあり様であった。温県に入ると、恵帝は先祖の陵に赴いたが、この時靴を無くしたので、従者の靴を履いて陵墓に向かって涙ながらに拝礼したという。洛陽を守る張方は子の張羆に兵を与えて一行を迎え入れさせ、恵帝は張方の車に乗って洛陽へ帰還した。張方が恵帝に拝謁しようとすると、恵帝は車を下りてそれを止めさせた。恵帝が宮殿に帰ったと伝わると、四散した百官も次第に集まり始めた。 11月、再び永安と改元した。張方は長安への遷都を目論み、恵帝に宗廟への拝謁を勧めて連れ出そうとしたが、恵帝は拒否した。その為、張方は兵を率いて宮殿に入ると、強引に自らの車に恵帝を乗せようとした。驚いた恵帝は後園の竹林に逃げたが、兵士達は恵帝を連れ出して無理矢理車に乗せた。恵帝は涙ながらに従う他なく、ただ盧志だけが側に侍って慰めた。恵帝は張方に伴われて長安へ移送された。途中、新安を通った時、恵帝は馬から落ちて足をくじいてしまったが、尚書高光は面衣を進呈したので、恵帝は喜んだという。司馬顒は一行を出迎えると、進み出て拝謁しようとしたが、恵帝は車を降りてそれを止めさせた。12月、詔を発し、司馬穎を皇太弟から廃して謹慎を命じ、代わって司馬熾(後の懐帝)を皇太弟に立てた。また、司馬顒を都督中外諸軍事に、張方を中領軍・録尚書事・領京兆尹に任じた。同月、永興と改元した。 305年7月、司馬越は皇帝奪還を掲げて徐州で決起し、東平王司馬楙・王浚・范陽王司馬虓・平昌公司馬模らもまたこれに呼応した。恵帝は密かに劉虔を派遣し、司馬越と司馬楙に正式に官爵を与えた。10月、司馬顒は恵帝の詔を奉じて司馬越らに封国に帰還するよう命じたが、応じなかった。306年5月、司馬越配下の祁弘らは長安を攻略し、恵帝を牛車に乗せて洛陽に帰還した。恵帝は太弟太保梁柳を鎮西将軍に任じ、関中を守らせた。6月、洛陽に帰還して旧殿に戻ると、恵帝は涙を流したという。その後、羊献容を皇后に復位させ、太廟に拝謁した。さらに大赦を下して光熙に改元した。8月、恵帝は南中郎将劉陶に逃亡中の司馬穎逮捕を命じた。9月、頓丘郡太守馮嵩が司馬穎を捕らえて鄴に送還し、翌月に長史劉輿により殺害された。 11月、洛陽の顕陽殿にて、麺餅(中国語版)(穀物粉を主体とした軽食類)を食べて食中毒になり、48歳で崩御した。司馬越が毒殺したともいわれる。遺体は太陽陵に埋葬された。八王の乱は恵帝の死の翌月、司馬越が新帝として恵帝の異母弟の司馬熾を擁立する事で収拾されたが、もはや西晋の衰亡はとめようもなく、建興4年(316年)に滅亡した。恵帝の死から僅か10年後であった。
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