史実との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:55 UTC 版)
千代の出自には複数の説があり、ひとつは近江の土豪である若宮氏を出自とするもの、細川氏の出身、不破市三郎の娘とする説もある本作では執筆当時に知られていた[要出典]美濃不破氏説が採用されている。また、美濃の豪族東家系(要出典)遠藤氏の系譜という説もある。これは本作品が執筆された後に出て来た説である。また生誕地は郡上市とも言われるが、2006年の大河ドラマでは米原市飯村に設定されている。また名前も千代の他にまつとする説もある。 金ヶ崎の戦いで、朝倉家の家臣三段崎勘右衛門が放った矢が一豊の頬を射抜き、五藤吉兵衛が一豊の顔を踏んで抜いたという話があるが、その矢の矢じりは現存し、安芸市の歴史民俗資料館に展示されている。その時吉兵衛がはいていたとされるわらじも同資料館にある。 土佐入国後は、長曾我部氏の家臣との対立にも悩まされた。土佐山内家宝物資料館の渡部淳館長によれば、種崎浜で反抗する領民を虐殺したことも、戦国時代では珍しくはなかったとされるが、土佐では山内家は進駐軍のような見方をされるといわれ、この対立感情が幕末まで尾を引くことになる。 山内氏18代当主山内豊秋は、この作品を以下のように批判している。 司馬遼太郎さんの『功名が辻』では、愚図な駄目男とされ、土佐守になると、賢夫人のコントロールが効かなくなり、暴虐を尽くす。小説としてはおもしろいが、これでは一豊夫妻のセールス・ポイントが消滅してしまう。一豊夫妻は一生緊密であり、夫人の政治感覚や晩年、禅の達人であることなどは別としても、一豊自体、剛将・謀将にして、また政治・経済・農政・土木に長じ、さらに鉄砲や蹴鞠まで嗜む万能選手で、わが家の歴代ではピカ一である。難治の土佐統治も、やり抜いたと目される。小説であっても、歴史小説であるからには、史実の中核を抹殺するがごときフィクションを記してよいものか。乃木大将の旅順攻略を、戦術の無能者として断ずることへの世人の反発とともに、史料不足か早とちりである。敬愛する司馬さんに盾突きたくないが、この件は先祖のために反論しておきたい。 — 以上の点に関しては、作者の司馬自身が「若いころに書いた作品で、自分でも不満があった」と言っている。しかしその後、19代当主の山内豊功は、2006年に大河ドラマ化された作品を見て、「豊臣秀次や堀尾吉晴、中村一氏という、これまであまり登場することのなかった人物が出てきて面白い」「脚本家ががんばっている」と述べ、また原作に関しては「小説と史実は異なるもの」として、「判断力がなければ戦国の世は生き残れず、やはり一豊はピカイチだった」と語っている。 種崎浜の一領具足粛清について 土佐入国後、長曾我部氏の家臣との対立にも悩んだ山内一豊が「相撲大会」と称して種崎に一領具足を集めて虐殺したというエピソードが物語の終末に描かれる。史実では、慶長5年(1600年)11月に、徳川・山内による土佐収公に反発した長曾我部旧臣による浦戸一揆が発生したのち、翌慶長6年(1601年)に一豊が土佐に入国し、その直後の同年3月、山内側は桂浜で相撲大会を開催し、この際に見物に集まった浦戸一揆関係の一領具足73人を逮捕し、種崎浜で処刑した。その後、慶長8年(1603年)に長曾我部旧臣による大規模な滝山一揆が起きている。一方、『功名が辻』では、浦戸一揆、本山一揆(滝山一揆に比定)の後に相撲大会の事件が起きたと描かれた。相撲大会の件は完全なフィクションではないが、史実とは順番が異なっている。
※この「史実との関連」の解説は、「功名が辻」の解説の一部です。
「史実との関連」を含む「功名が辻」の記事については、「功名が辻」の概要を参照ください。
- 史実との関連のページへのリンク