対立感情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:14 UTC 版)
皇帝フリードリヒ3世からシュヴァーベン同盟にも参加するよう頼まれたとき、スイス同盟は断固として拒否していた。なぜならハプスブルク家の利益を促進するために作られた同盟に参加する理由は何もないと考えていたからであり、この比較的緊密かつ強固な北の辺境の新しい同盟をむしろ警戒していたのであった。さらに強力な貴族集団としてのシュヴァーベン同盟を、過去200年間、まさにそのような貴族支配を否定しながら成長してきたスイス同盟は全く異質なものだと考えていたため、快く思っていなかった。 シュヴァーベン同盟側でも同様の懸念が生じた。シュヴァーベンの民衆にとってスイス連合の自由と独立の精神は強力かつ魅力的な手本のようなものだった。そのため南シュヴァーベンの多くの貴族たちは民衆が反乱を起こし、スイス同盟への支持を求めることを恐れていた。 このような恐れは荒唐無稽なものではなく、実際スイスはライン川の北部で同盟を形成し始めて、1454年にはシャフハウゼンと最初の条約を締結し、さらにロットヴァイル(1463)またはミュルーズ(1466)などの都市と条約を締結していった。 スイス傭兵(”Reisläufer” )とシュヴァーベン人庸兵(ランツクネヒト”Landsknechte”)の間の競争心は、互いにヨーロッパ中の戦争である時には対立し、またある時には手を携えるなどを重ねるうちに激化していった。現代ではブルゴーニュ戦争における勝利の後、ヨーロッパで最高の兵士だという評価を与えられたと考えられているスイス傭兵も、当時のランツクネヒトに取っては冷やかしと罵倒の対象であったという報告が認められている。一方のランツクネヒトたちも「クーシュワイザー("Kuhschweizer")」と呼ばれて嘲笑されていた。 そのような侮辱は決して軽率なやりとりなどではなく、頻繁に流血の事態を招いた。そのような事態がどちらの側の軍司令部も望まない、あるいは予期もしない衝突や略奪的遠征を引き起こして、シュヴァーベン戦争自体を長期化させたのは確かである。
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