五藤吉兵衛とは? わかりやすく解説

五藤為浄

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/28 06:41 UTC 版)

 
五藤為浄
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文22年(1553年
死没 天正11年3月3日1583年4月24日
別名 通称:吉兵衛
墓所 高知県安芸市安芸城横にある安芸川北横山墓地
主君 山内一豊
氏族 五藤氏
父母 父:五藤浄基 母:堀江の娘[1]
兄弟 為浄為重
五藤浄清[2]
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五藤 為浄(ごとう ためきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将山内家の家臣。

略歴

天文22年(1553年)、五藤浄基の子として尾張国葉栗郡黒田[3]で誕生した。

五藤家は父・浄基の頃から山内家に仕え、為浄も当主・山内一豊に従い刀根坂の戦いなどに転戦する。

天正元年(1573年)、朝倉氏と戦った金ヶ崎の戦いで、矢が一豊の頬に刺さり、左眼横から右奥歯を貫通したが、五藤吉兵衛が一豊の顔を踏んで抜いた。五藤は「主君の顔を踏んだ」ということを喜び、わらじと矢を家宝にした[4][5]


天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢国亀山城攻撃の際、主君・一豊の城内一番乗りを助けるが、討死した。享年31と伝わる。

その後、家督は養子の五藤浄清が弟・為重の娘を娶って継承し、為重自身は山内家の家老となった。山内一豊が土佐国に入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。その後も五藤氏は幕末まで代々土佐藩家老を勤めている。

脚注

  1. ^ 越前朝倉氏娘。堀江景忠等と同じ住所であったとの記載あり。
  2. ^ 実は前野泰道三男。
  3. ^ 愛知県一宮市黒田。
  4. ^ 丸善出版編『47都道府県ご当地文化大百科』丸善出版株式会社、令和6年10月30日、p.37.
  5. ^ 安芸城跡と周辺観光”. 2023年7月7日閲覧。

登場作品

関連項目


五藤吉兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:55 UTC 版)

功名が辻」の記事における「五藤吉兵衛」の解説

右衛門と並ぶ、一豊の父盛豊のころから郎党機転利き、一豊の牢人時代助け織田家仕官の後は新右衛門共々豊の手足となって働き亀山城攻め討ち死にする

※この「五藤吉兵衛」の解説は、「功名が辻」の解説の一部です。
「五藤吉兵衛」を含む「功名が辻」の記事については、「功名が辻」の概要を参照ください。

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