史実と伝承の違いの発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/18 20:54 UTC 版)
この内紛の実情は、房総半島を巡る北条氏綱―里見実堯・義堯―古河公方(足利高基)派と小弓公方(足利義明)―真里谷信保・信隆―里見義豊派による主導権争いであると見られている。また、この争いで義豊方について没落したと言われているのは、安西氏・丸氏などの安房の旧勢力や木曾氏などの初代義実以来の旧臣、中里氏・堀内氏のような里見氏庶流とされた家々であり、一方義堯方は正木氏をはじめとして実堯・義堯の上総進出の過程で従った新規の家臣が多かったとされている。里見氏の勢力拡大とこれに伴う実堯派家臣の増大は実堯の影響力拡大の一方で当主・義豊や旧臣・一族の不安を高め、義豊は下剋上の危機を抑え込むために実堯誅殺を決断したとみられている。 だが、勝者である里見義堯にとって見れば、 正統な当主である義豊を誅殺して里見氏の家督を奪ったこと そのために里見氏にとっては仇敵である北条氏の援助を受けたこと 程なく北条氏を裏切って対立陣営である小弓公方側に寝返ったこと など里見氏当主としてはあまりに都合の悪い事実だけが存在していた。 そこで義堯が義豊の生年を繰り下げて、里見実堯が幼君・義豊の後見人として誠意を尽くしながら、義豊の無分別により殺害されて、義堯はその敵討ちの為に挙兵したという事実に反するシナリオを作り上げたと見られる。例えば、保田妙本寺には里見義堯から譲られたとされる「源家系図」が現存しているが、義豊の記述は「太郎」とのみ書かれて事蹟などは削られている、あるいは義豊以前の里見氏関係古文書の異常な少なさなど、義堯以後の記録の抹殺・改竄を疑わせる事例が見受けられている。 この「作られた歴史」が里見氏の公式な歴史見解として定着し、近代以後もこの歴史見解が信頼され続けたために、このような史実と伝承との差が残った。なお、近年は古文書などを通じた里見氏の歴史の再評価が進められている(正木時茂の没年繰上げなど)。
※この「史実と伝承の違いの発生」の解説は、「稲村の変」の解説の一部です。
「史実と伝承の違いの発生」を含む「稲村の変」の記事については、「稲村の変」の概要を参照ください。
- 史実と伝承の違いの発生のページへのリンク