古典的な製法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:36 UTC 版)
江戸時代の日本では、落語の題材になったり、『豆腐百珍』のような料理本まで出るほど、広く庶民の食べ物となっていた豆腐は、比較的加工の度合いも低く、経験さえ積めば誰にでも容易に製造できたため、大正時代から昭和時代の第二次世界大戦前にかけては、一つの町内に一軒ずつ製造業者が存在するほどであった。辺鄙な田舎であることを表すのに「酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」という狂歌もある。また、味噌などと同様に、各集落で共同で作られることもしばしばあった。 まず原料の大豆を、一夜(12時間ほど)真水に漬けておく。翌朝、十分に漬けあがった大豆を適度に水を加えながら石臼でクリーム状に磨り潰す、このクリーム状に磨り潰された大豆のことを「呉」と呼ぶ。次に呉を釜に移し、適度に水を加えて濃度を調整し薪にて炊き上げる。この時、呉はサポニンの作用で激しく泡立つため、消泡剤として食用油に石灰を加えたものを適度に振りかける。十分に炊き上がった呉を、布で濾して豆乳を木桶に取る。この豆乳が冷えないうちに凝固剤としてにがりを適度に加え、櫂と呼ばれる木の板で撹拌する(にがりを打った以降の一連の作業を寄せと呼び、職人の技の見せ所である)。豆乳の濃度、温度、にがりの量、そして適度な「寄せ」がそろうと、豆乳は水と分離することなく固まり始め、やがておぼろ状、またはプリン状の豆腐となる。これを崩しながら内側に布を敷いた型の中に盛り込み、蓋をして重石を掛け、硬く水を切ると豆腐(木綿豆腐)となる。 石臼 石臼で磨り潰されることにより、必要な蛋白分や糖分のみが液中に飛び出し、渋みの多い皮の部分はあまり細かくなることなく、おからとして排出されやすくなると言われている。工業化された製法では、グラインダーで豆を微細に削る。石臼を使うと、呉の焼け(酸化)が少なくなるとも言われている。 釜 いわゆる地釜(五右衛門釜)である。直火で炊き上げるため、呉が非常に焦げ付きやすく、濃く粘度の高い呉を使って、現在のような高濃度の豆乳を作ることは、事実上不可能であった。大豆固形分濃度は推定7 - 8%であったと考えられる。現在は蒸気釜で炊き上げるため焦げることはなく、豆腐の場合10 - 13%の豆乳が一般的である。 消泡剤 呉を炊くと、大豆中のサポニンが激しく泡立つため、釜から呉が容易に吹きこぼれてしまう。また泡立った呉から取った豆乳もメレンゲ状の泡に包まれてしまうので、まともににがりを打ち、寄せの作業をすることが出来ない。このため古くから消泡剤を使うのが一般的であった(『豆腐集説』 1872年[明治5年])。また消泡剤は乳化剤としての側面も持っていて、呉液を乳化させることにより大豆中の旨み成分(大豆油のアミノ酸等)を豆乳の中に引き出す重要な役割も担っている。他方、最近では消泡剤を使用しない豆腐も注目を集めている。 にがり、寄せ さまざまな寄せの方法があるが、典型的な例として、桶の中の豆乳をにがりと反応させながら、櫂で中心に「寄せる」作業を行う。この時、豆乳は、蛋白の分子がにがりに反応して水の分子を包みながら網の目状に繋がり始め、大きく見るとプリン状になり、豆腐となる。釜で炊かれた豆乳は、前述の通り濃度が低いので、蛋白分子が繋がった網の目構造の網の目が粗いものとなる(濃度が高いと緻密な網となる)。このため水をその網に十分に捕らえることが出来ないので離水しやすく、木綿豆腐を作ると、水切れがよく非常に硬い豆腐が出来上がる。ゆえに、古来の豆腐というのは、このように非常に硬い木綿豆腐であったと考えられる。 またこの方法で作られた豆腐は、最近まで山間部や離島などに残っていた。1980年(昭和55年)前後の岐阜県の徳山村や根尾村などで、この古典的な製法が確認されている。最近では、山間部で、逆に濃度の濃い豆乳を使って作った硬い豆腐を土産物的に売っているが、これは近代的に作られた似て非なるものである。
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