厚生大臣 ― 人工妊娠中絶の自由化「ヴェイユ法」
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「シモーヌ・ヴェイユ (政治家)」の記事における「厚生大臣 ― 人工妊娠中絶の自由化「ヴェイユ法」」の解説
詳細は「ヴェイユ法」を参照 1974年にヴァレリー・ジスカール・デスタン政権が発足。シモーヌ・ヴェイユはジャック・シラク内閣のもと、厚生大臣として初入閣を果たし、第五共和政初の女性大臣が誕生した。しかし、入閣から半年足らずで、まだほとんど名前を知られていなかった彼女が、非常に困難な課題に取り組むことになった。人工妊娠中絶の合法化である。実際、年間約30万人の女性が非合法の中絶手術を受けており、さらに、1970年代の女性解放運動 (MLF)の高まりのなかで、1971年に避妊手段と人工妊娠中絶の自由化を求める「343人のマニフェスト」が発表され、1972年には、友人に強姦されて妊娠した当時16歳の女子学生マリー=クレールが非合法の中絶を受けたとして母親、医師らとともに起訴された事件(ボビニー裁判)が起きるなど、事態の深刻さが明らかになり、政府は対応を迫られていた。また、ジョルジュ・ポンピドゥー前大統領も1973年1月9日の記者会見で中絶に関する現行法は時代遅れだと認め、選挙後に議員、宗教指導者、医師団等と避妊や中絶に関する話し合いを開始すべきだと明言した。 シモーヌ・ヴェイユは1974年11月26日に法案を国民議会に提出し、次のように訴えた。 私は心底、確信している。人工妊娠中絶は今後も例外的なもの、出口のない状況における最後の手段でなければならないと。しかし、このように例外的な性質を失うことなく、また社会が中絶を助長することなく、しかもこれを許容するためにはどうしたらいいのか。私はまず、ほとんど男性ばかりのこの国民議会において、女性としての私の信念を伝えることをお許しいただきたい。自ら進んで中絶手術を受けようなどと思う女性は一人もいない。女性たちの話を聞くと、それがよくわかる。中絶とは常に深刻な事態であり、それは今後も変わらない。だからこそ、今日、提出する法案により、このような既成事実となった状況を検討しなければならないのであり、これが人工妊娠中絶の可能性を開くとしたら、それは中絶に関する枠組みを定め、女性たちに中絶を思いとどまらせるためである。 3日間にわたって白熱した討論が交わされ、シモーヌ・ヴェイユは猛烈な攻撃を受けた。 反対派の急先鋒であったジャン・フォワイエ(フランス語版)元法務大臣は、「ご存知のように、既に資本家らが死の産業に投資したくてうずうずしている。遠からず、フランスで死児が積み重なるアボルトワール(「中絶手術を行う施設」の蔑称)、否、アバトワール(屠殺場)が誕生することになるだろう」と辛らつに批判した。挙句は、シモーヌ・ヴェイユがアウシュヴィッツ強制収容所からの生還者であることも忘れて、胎児を「(強制収容所の)死体焼却炉に投げ込むようなものだ」と心ない暴言を吐く議員すらいた。 シモーヌ・ヴェイユはこれらの発言一つひとつに根気強く対応した。11月29日早朝に投票が行われ、3時40分、賛成284票、反対189票で法案は可決された。 やがて、与党フランス民主連合 (UDF) 内部にジスカール・デスタン派とシラクらネオ・ゴーリストとの対立が生じたが(詳細は「フランス民主連合」参照)、シモーヌ・ヴェイユは常に独立性を維持し、彼女に対してかなり冷淡であったジスカール・デスタンよりはシラクと良好な関係を築いていたにもかかわらず、シラクからの提案を断り、レイモン・バール内閣に留まった。しかし、実際には、レイモン・バールに共感していたわけではなかった。1980年10月3日にパリ16区のコペルニック通りのシナゴーグで爆弾テロが発生した際に、「シナゴーグに向かうユダヤ教徒を狙ったこの忌まわしいテロ事件で、コペルニック通りを歩いていた罪のないフランス人が犠牲になった」と発言(失言)したレイモン・バールをシモーヌ・ヴェイユは赦さなかった(この事件は死者4人、負傷者20人の犠牲者を出した)。
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