博士論文から『意志と表象としての世界』へとは? わかりやすく解説

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博士論文から『意志と表象としての世界』へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 02:30 UTC 版)

アルトゥル・ショーペンハウアー」の記事における「博士論文から『意志と表象としての世界』へ」の解説

1812年24歳)、ベルリン大学でのフィヒテシュライエルマッヘル対す尊敬軽蔑否定変わり、これに反し古典文献学ヴォルフ学者として人間としても高く評価する1813年25歳)春、戦争の危険を感じ第四学期済まないうちにベルリン去りワイマールの母のところへ帰った間もなく母と気まずくなり、ルードルシュタットのホテルこもって博士学位論文根拠原理四つの根について』を完成イエナ大学提出し10月18日哲学博士学位を得る。刊行され論文最初読者となったゲーテはその才能高く評価し自身指導のもとに色彩現象研究するよう懇請する1814年26歳5月に母と完全に仲たがいしてドレスデン移住するまでに、東洋学者フリードリヒ・マイヤーを通じて古代インド哲学、とくに『ウプネカット』を知るようになり、これによってショーペンハウアー来るべき思想決定けられることとなる。1815年27歳)、色彩論視覚と色彩について』を完成、翌1815年28歳)これが刊行されゲーテに送る。1817年29歳)、主著意志表象として世界』に対す準備工作が、3月から始めた全体を、関連する論説でもって人々把握させ得るようにすること」の範囲では終了し、翌1818年30歳5月、『意志と表象としての世界完成6月ゲーテその旨手紙知らせ原稿書店渡したイタリア旅立つ1819年31歳初め、『意志と表象としての世界』がブロックハウス書店刊行されたが、商業的に不成功に終わる。6月ミラノにて父の遺産一部預けておいたダンツィヒ銀行倒産したの報を受け、この事件整理ワイマールに戻る1820年32歳)3月ベルリン大学にて「原因四つ異なった種類について」というタイトルで、教職に就くための試験講義行い講師地位を得ると、「哲学総論、あるいは世界本質および人間精神学説について」というテーマ毎週五回講義するも、ショーペンハウアー自分講義故意ヘーゲルの主講義時間合わせたため、聴講者が集まらず失望する。「イエナ文学新聞」に『意志と表象としての世界』への批判的議論載り反駁として『虚偽引用対するやむを得ざる告発』を書く。1821年33歳)、いわゆるマルクェト事件起こり、翌1822年34歳5月にはスイス経て第二回イタリア旅行に出る。1823年35歳5月帰国しミュンヘン赴くと、この地でほぼ一年間病気苦しみ、右耳が聞こえなくなる。憂愁が深まる中、翌1824年36歳5月29日から6月19日まで、治療のためガシュタインに滞在9月にはドレスデン赴く

※この「博士論文から『意志と表象としての世界』へ」の解説は、「アルトゥル・ショーペンハウアー」の解説の一部です。
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