博士論文から『意志と表象としての世界』へ
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「アルトゥル・ショーペンハウアー」の記事における「博士論文から『意志と表象としての世界』へ」の解説
1812年(24歳)、ベルリン大学でのフィヒテとシュライエルマッヘルに対する尊敬が軽蔑と否定に変わり、これに反し古典文献学者ヴォルフを学者としても人間としても高く評価する。1813年(25歳)春、戦争の危険を感じ第四学期の済まないうちにベルリンを去りワイマールの母のところへ帰ったが間もなく母と気まずくなり、ルードルシュタットのホテルにこもって博士学位論文『根拠の原理の四つの根について』を完成、イエナ大学に提出し、10月18日に哲学博士の学位を得る。刊行された論文の最初の読者となったゲーテはその才能を高く評価し、自身の指導のもとに色彩現象を研究するよう懇請する。 1814年(26歳)5月に母と完全に仲たがいしてドレスデンに移住するまでに、東洋学者フリードリヒ・マイヤーを通じて古代インド哲学、とくに『ウプネカット』を知るようになり、これによってショーペンハウアーの来るべき全思想が決定づけられることとなる。1815年(27歳)、色彩論『視覚と色彩について』を完成、翌1815年(28歳)これが刊行され、ゲーテに送る。1817年(29歳)、主著『意志と表象として世界』に対する準備工作が、3月から始めた「全体を、関連する論説でもって人々に把握させ得るようにすること」の範囲では終了し、翌1818年(30歳)5月、『意志と表象としての世界』完成、6月にゲーテにその旨手紙で知らせ、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立つ。 1819年(31歳)初め、『意志と表象としての世界』がブロックハウス書店で刊行されたが、商業的には不成功に終わる。6月にミラノにて父の遺産の一部を預けておいたダンツィヒの銀行が倒産したの報を受け、この事件の整理にワイマールに戻る1820年(32歳)3月、ベルリン大学にて「原因の四つの異なった種類について」というタイトルで、教職に就くための試験講義を行い、講師の地位を得ると、「哲学総論、あるいは世界の本質および人間の精神の学説について」というテーマで毎週五回講義するも、ショーペンハウアーは自分の講義を故意にヘーゲルの主講義の時間に合わせたため、聴講者が集まらず失望する。「イエナ文学新聞」に『意志と表象としての世界』への批判的議論が載り、反駁として『虚偽の引用に対するやむを得ざる告発』を書く。1821年(33歳)、いわゆるマルクェト事件が起こり、翌1822年(34歳)5月にはスイスを経て第二回のイタリア旅行に出る。1823年(35歳)5月、帰国しミュンヘンへ赴くと、この地でほぼ一年間病気に苦しみ、右耳が聞こえなくなる。憂愁が深まる中、翌1824年(36歳)5月29日から6月19日まで、治療のためガシュタインに滞在、9月にはドレスデンへ赴く。
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