北ボルネオとスールー王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 16:04 UTC 版)
「スールー王国」の記事における「北ボルネオとスールー王国」の解説
スールーは北ボルネオ(マレーシア連邦サバ州)を領土として主張した時期があったが、これが現在マレーシアとフィリピン間での領土問題の遠因となっている。 19世紀後半、北ボルネオはスールー王国とブルネイ王国のスルタンがともに名目上の統治者であり、実際は二つのスルタンの下で地元の領主たちが河川流域ごとに支配を行っていた。1865年、ブルネイのアメリカ合衆国領事クロード・リー・モーゼズ(Claude Lee Moses)はブルネイから北ボルネオの10年間の租借権を得た。しかし南北戦争直後のアメリカにはアジア植民地を経営する余裕がなく、モーゼズは租借権を香港にあるアメリカ・ボルネオ貿易会社(American Trading Company of Borneo)に売却した。この会社はボルネオでの入植地建設失敗により経営難になり、租借権をオーストリア・ハンガリー二重帝国の香港領事フォン・オーバーベック男爵(Von Overbeck)に売却した。彼はボルネオのスルタンと交渉して契約の10年延長を得て、さらに1878年1月22日にスールー王国のスルタンとも同様の条約を締結した。フォン・オーバーベックはウィーンの政府に植民地経営を働きかけたが失敗し、イタリアに流刑植民地として売却する交渉もうまくゆかなかったため、1880年に北ボルネオから手を引いた。 彼の資金面での協力者だったアルフレッドとエドワードのデント兄弟(阿片戦争で有名なLancelot DentのDent & Co.の家族)のうち、ボルネオに残ったアルフレッド・デントは英国外交官のラザフォード・オールコックらに後援されていた。彼らの後ろ盾によりデント兄弟は1881年7月に会社を作り、翌1882年の勅許によってイギリス北ボルネオ会社を作って北ボルネオの統治を始めた。オールコックを社長とする北ボルネオ会社はオランダ・スペイン・サラワクなどの抵抗を受けるものの、入植地建設、行政制度整備、中国人労働者の招致などを推進して北ボルネオの経済を拡大させ、1888年7月にはイギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオとすることに成功した。 北ボルネオ会社はスールーとオーストリアとの契約を購入であると解釈していた。しかし1883年1月7日にイギリスの外務大臣グランヴィル卿が出した書簡では、1878年にフォン・オーバーベック男爵がスールーのスルタンと結んだ条約は北ボルネオの賃貸であり購入ではなく、それゆえ北ボルネオに対する主権はスールーのスルタンに残っているとされている。スールー側もこの契約は租借だと解釈しており、自分たちに主権が残っていると考えていた。 第二次世界大戦による荒廃で北ボルネオ会社は経営をあきらめ、北ボルネオは1946年に王領植民地となり、1963年8月31日に自治を認められ、その直後の9月16日にマラヤ連邦やサラワク、シンガポールとともにマレーシアを結成した。しかしスールーのスルタンの末裔は「北ボルネオはスールーに返還されるべき」と主張し、またスールー王国を継承したとするフィリピン政府もマレーシア結成の構想に反対する中でこの見方を取るようになり、サバ州(旧北ボルネオ)をめぐりマレーシアとフィリピンの間で領土問題が起きた。 マレーシアは1963年以降、スルタンの末裔に毎年5300リンギット(約16万円)を支払っているが、前述の通りこれが租借料なのか購入費(の分割支払い)なのかで意見が分かれている。2013年にはスルタンの末裔キラム家の一員でありマニラに住んでいるジャマルル・キラム3世が400人からなる「スールー王国軍」を突然サバ州に上陸させ、旧王国の承認とサバ州の返還を求める事件が発生した(ラハダトゥ対立 (2013年))、長らく店晒し状態だった問題が再燃する可能性が出ている。
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