判決・その後
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2007年2月、大阪地方検察庁は死刑を求刑した が、その際に被害者遺族も求刑に参加できるようにする、という初の試みがなされており、またM自身も最終弁論において死刑になることを望んでいる。 同年3月28日、大阪地方裁判所で、Mは求刑通りの死刑判決を受けた。その理由として、水島和雄裁判長は、以下のことを挙げた。 被害者が被告と同じ自殺志願者であったことについては「直前に、被害者自身が殺していいという意思表示をした」という「刑法202条(自殺幇助及び同意・嘱託・承諾殺人、7年以下の懲役)を満たす、被告側に有利となるような要件」については、唯一の物証であるテープの冒頭部分を見る限りでは「あった」と立証できるものの、「練炭による安らかなる死、という偽りの殺害方法」を提示して誘拐しておきながら、「リンチもしくは拷問によって」これまでに数回自殺を図ったが死にきれなかったために味わった被告自身の「生き地獄の責め苦」を「自らの性的欲望を満たす意味合いも兼ねて被害者にも強要」し、被害者自身が「殺され方を選択できる余地がなく」本人の望んでいた、あるいは期待していた「最初に提示されていた練炭による安らかなる死」とは180度異なっており、同じ自殺志願者仲間のやるようなこととは到底思えず、結果の重大性を左右できるようなものでもありえないため、前述の「刑法202条に基づいた、死刑回避できるような減刑事由」に相当しかねること。 男性2人の殺人については自首が成立するとともに、遺族に対しては反省や謝罪の言葉をしきりに口にしており、最終弁論の最後においては土下座もしているという言動を見る限り、法律の上では弁護側が主張したとおりの「減刑事由」に相当するものの、それ以前に被告は罪状の過少申告をして減刑を勝ち取ったり、また今回の事件について言えば下準備や証拠隠滅工作を重ね、完全犯罪をほぼ達成できていたという事実を見るに、完全責任能力を有していたばかりか、過去の連続(強盗)傷害罪の再犯・併合罪加重が立ちはだかっているという事実に加え、第1の殺人について言えば準婦女暴行致死罪が成立するような状況だったとの事実認定ができる以上は、自首や謝罪をしたとはいえ「死刑回避できるような減刑事由」に相当しかねること。 1年以上にわたって行われた精神鑑定によると、被告人は両親、特に元警察官である父親からは独自の逮捕武術から派生した窒息によるリンチ・虐待を受けており、これが被告の言う「4つの性癖(白色スクールソックス、窒息、唯一効力のある「精神安定剤」が他人をいたぶることであること、そのことを苦にしたことで生じた自殺願望)」の根本となっていた。この事実を察するに、元々うつ病で騙されやすい体質の被害者全員はもちろんのこと、似たような境遇である被告もお互い何の非もなく悲劇的であり同情に値するが、この「4つの性癖」によって、本判決までに120人以上を殺傷して裁判所と塀の外を行ったりきたりして「非行歴も含めて、前科5犯の再犯者(しかも前科の内容は5つとも全く同じもの)」となっているという事実を見る限り非常に根深いものがある以上、手のほどこしようがないと断言することができ、さらには今回の殺害動機とも因果関係があると立証できた時点で、矯正・更生の見込みは極めて絶望的であり、最終弁論において被告本人自身もそうであると認めている以上、弁護側のみが主張した「死刑回避できるような減刑事由」に相当しかねるということは明白である。また被害者遺族及び関係者の処罰感情の峻烈さと相俟って、死をもって償わせるしか被害者・被告など当事者全員を救う方法はないこと。 弁護側は即日控訴したものの、Mが2007年7月5日付けで弁護人の控訴を取り下げたため、死刑が確定した。 2007年7月7日、控訴取り下げの無効を求める審理開始の弁護人の申し立てを大阪高等裁判所は受理した。 2009年7月28日、森英介法務大臣(当時)の執行命令書捺印により、Mの死刑が執行された。死刑確定から2年という早さでの執行であった。同日には大阪姉妹殺害事件の死刑囚他1名の死刑も執行されている。
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