初期:1943-51年
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「ニューヨーク・シティ・オペラ」の記事における「初期:1943-51年」の解説
NYCOはニューヨーク・シティ・センター・オペラとして設立され、元々はマンハッタンの西55丁目にあるニューヨーク・シティ・センターを本拠地にしていた。 ラースロー・ハラース(英語版)がこの劇団最初の監督であり、1943年から1951年までその職務を果たした。大衆が視聴できるオペラにするという会社の目標を考えると、チケットは安価であるべきで、作品は肉体的にも声的にも役割に適した歌手を起用してもっともらしく上演されるべきだ、とハラス氏は確信していた。このため、同社最初のシーズンのチケット価格はわずか2ドル75セント(現在のドル換算で28ドル)という値段となり、会社はその最初のシーズンを予算3万0463ドル(現在のドル換算で4300万ドル)で運営していた。そのような価格だと、会社はメトロポリタン・オペラで楽しめたスター広告を賄うことができなかった。しかしながらハラースは、この会社を若い歌手、特にアメリカ人オペラ歌手にとって重要な舞台にすることにより、この事実を美徳に変えてみせた。 1944年2月、この会社最初のシーズンに開催したものにジャコモ・プッチーニの『トスカ』、フリードリッヒ・フォン・フロトーの『マルタ』、ジョルジュ・ビゼーの『カルメン』の製作が含まれていた。ドゥソリナ・ジャンニーニ(英語版)、ジェニー・トゥーレル、マーサ・リプトン(英語版)を含む、数人の著名な歌手がこの最初のシーズンで公演しており、彼らはNYCOデビュー後すぐにメトロポリタン・オペラに引き抜かれた。ハラースがNYCOで起用した他の著名な歌手には、フランシス・バイブル(英語版)、アデレイド・ビショップ(英語版)、デブリア・ブラウン(英語版)、マック・ハレル(英語版)、トーマス・ヘイワード(英語版)、ドロシー・カーステン、ブレンダ・ルイス(英語版)、エヴァ・リコヴァ(英語版)、レオン・リシュナー(英語版)、レジーナ・レズニック、ノーマン・スコット(英語版)、ラモン・ヴィナイ、フランシス・イーンド(英語版)らがいる。1945年に、会社はアフリカ系アメリカ人の演者を有する最初の主要な歌劇団になった。 これはルッジェーロ・レオンカヴァッロの作品『道化師』において、トッド・ダンカン(英語版)がトニオとして出演したものである。ローレンス・ウィンターズ(英語版)とロバート・マクファーリン(英語版)は、同時期に劇団と歌うための著名な別のアフリカ系アメリカ人オペラ先駆者だった。1946年に『蝶々夫人』でヒロインを務めたソプラノのカミラ・ウィリアムズ(英語版)が、この会社と共に歌った最初のアフリカ系アメリカ人女性となった。 NYCOのあるべき姿に関する自身の強い信念があって、ハラースは会社の取締役会と激しく対立する関係になった。その一つに、彼はオペラをアメリカの観客がより視聴しやすくするため、外国語作品を英語で上演する考えを支持した。彼は毎シーズン最低1つの製作を英語で提供することを主張した。ハラースと役員会の間で最も緊張が生じた問題は、アメリカの作曲家による新しい作品と聴くことが稀なオペラを当オペラハウスで上演するというハラースの約束事だった。 1946年10月10日、同社によって公開された最初のニューヨーク市初公演はリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』で、エラ・フレシュが主役、バージニア・マクワッターズ(英語版)が踊り子ツェルビネッタ、ジェイムズ・ピーズ(英語版)が音楽教師の配役だった。当時の報道では、その製作は「記録破り」と書かれており、それによってこの会社が「地図上に」掲載された。 NYCOは次いでアリアドネをモントリオールのヒズ・マジェスティーズ劇場(現:ハー・マジェスティーズ劇場)へ出張し、同オペラのカナダ初公演を行った。 本拠地で最初となる世界初公演は1949年、ウィリアム・グラント・スティルの『災いの島(英語版)』であった。それは特にアフリカ系アメリカ人によって作曲された、主要なオペラハウスで製作された最初のグランド・オペラとされている。1949年秋、不調に終わった1921年のシカゴ初公演以来アメリカでは見られなかった、セルゲイ・プロコフィエフの喜劇オペラ『三つのオレンジへの恋』をNYCOが復活させた。ウラジミール・ロジング(英語版)が監督したこの新作は大当たりして、追加で2シーズンにわたって興行が行われた。 また同年、ハラースは1950年にNYCOによって上演されるデビッド・タムキン(英語版)の『ディブック』の世界初公演を予定していた。しかしながら、NYCO役員会はこの決定に反対し、最終的にこの製作は経済的理由で延期された。それでもハラースは1951-52年のシーズンに含めるべく作業を再スケジュールした。ハラースの大胆なレパートリー選択に不安を感じ、1951年にNYCO役員会は、自分達の承認を受けるためハラースに自身のレパートリー計画を提出するよう主張した。結果として、彼はジャン・モレルを含む彼の指揮スタッフのメンバー数名および彼の最終的な後継者ヨーゼフ・ローゼンシュトックとユリウス・ルーデルの2人と共に脱退した。 大半の制作スタッフの脱退に直面して、役員会は仕方なく引き下がり、1951年10月4日にニューヨークで『ディブック』の世界初公演がNYCOで行われた。しかしハラースと役員会の間の緊張は高いまま残り、ハラースが労働組合紛争に巻き込まれた1951年末に、役員達は彼を解雇した。
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