初期 1963年-1964年
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「ミシェル・アフラク」の記事における「初期 1963年-1964年」の解説
バアス党とナセル主義者の関係は悪化していた。バアス党がイラクとシリアで政権に就いたことで、ナセルのアラブのリーダーとしての資格を弱めることになった。ナセルはバアス党への辛辣なプロパガンダ攻撃をはじめた。アフラクは、ナセルによって、「ローマ皇帝の傀儡」や「キプロス人のキリスト教徒」などと喧伝された。アフラクは怒りをみせ、反ナセル主義者となった。その結果、ナセルとの関係修復を目指すビータールと仲間割れすることになった。 ナセルとの対立は、バアス党の旧来の指導者層を弱体化させ、軍事委員会に拡大の余地を持たせた。軍事委員会は理論的指導を模索するため、かつてのようにアフラクのもとへ向かうことはせず、ハムード・アッ=シューフィー率いるマルクス主義派と連絡を取った。バアス党シリア地域大会では、軍事委員会はアフラクや旧来の指導者の穏健な社会経済政策に反対し、指導者層と対等な地位にあることを証明した。特にアフラクについては、古い世代で脆弱になっており、指導者の地位から外すべきだと考えていた。1963年10月に第6回党大会が開催され、アフラクは、かろうじて事務総長の地位は維持したが、シューフィーとアリ・サリーフ・アッ=サディ率いるマルクス主義勢力が最大勢力となった。また、アフラクの同期は役職を得られず、例えば、ビータールは民族指導部の席を失った。古くからの市民中心の指導層に代わり、軍人中心の指導層が徐々に成長していった。シリアからはジャディードとアミーン・アル=ハーフィズ、イラクからはアフマド・ハサン・アル=バクルとサーリフ・マフディー・アンマーシュが、民族指導部に選ばれた。軍事委員会は市民指導者に取って代わりつつあったが、それに対する批判にも敏感であり、プロパガンダパンフレットには社会主義の再建が成し遂げられたならば、市民と軍人の共生が重要であると書いた。 当時外部からは、バアス運動はシリアとイラク両国で成功しているかのように映っていたが、イラク・バアス党は既に権力を失いつつあった。ナセル主義者のアブドッサラーム・アーリフ大統領や軍と対立が起き、1963年11月イラククーデターでイラク・バアス党は政権から追放された。
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