出版までの経緯と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 14:48 UTC 版)
「魔王 (シューベルト)」の記事における「出版までの経緯と評価」の解説
シューベルトは初期ロマン派音楽の開拓者であり、ベートーヴェンよりもさらに自由な転調、描写的な要素を巧みに取り入れた表現などでロマン派ドイツ歌曲の新たな時代を切り開いた。 しかし、コンヴィクトでの試演の際に賛否両論の声が渦巻いたように、作品の真価はすぐには理解されなかった。成立の翌1816年4月、『魔王』の楽譜は他のゲーテの詞によるリートの譜とともに、シュパウンの仰々しい添え書き付きでヴァイマルのゲーテのもとに送られたが、ゲーテの「音楽顧問」とも言うべきカール・フリードリヒ・ツェルターは他の作品とともにさわりに触れただけで軽くあしらい、ゲーテ本人もシューベルトの表現を嫌ってヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトの手による同名作を高く評価するにいたった。1817年にはシュパウンからブライトコプフ・ウント・ヘルテルに宛てて出版のために浄書が送られたが、ここでも相手にされなかった。ブライトコプフは拒絶の返事をシュパウンではなくフランツ・アントン・シューベルトに宛てて送った。フランツ・アントンが「私の名前を騙ってこのような駄作を出版しようとするような不届きな輩はけしからん」と言って憤激したのはこの時である。一連のドタバタ劇は、先走って教職から離れていたシューベルトの鼻をへし折るには充分であり、身の立て方で意見が合わなかった父フランツ・テオドールとの間は一層悪いものとなった。 転機は1819年、レオポルド・フォン・ゾンライトナーの知己を得たことによる。ゾンライトナーはベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の台本を執筆したヨーゼフ・ゾンライトナーの甥にあたる人物であり、自身や友人が開く内輪な音楽会でしばしばシューベルトの作品を取り上げていた。ある時、ゾンライトナーはシューベルトに対してなぜリートを出版しないのかと問うたところ、シューベルトは出版社は誰も相手にしてくれず、かといって自費出版するには金銭面で苦しいことを打ち明ける。話を聞いたゾンライトナーは友人とともにアントン・ディアベリのもとで100部限定の内輪向けのアルバムを製作し、そのアルバムの冒頭に『魔王』を置いて作品番号1、『糸をつむぐグレートヒェン』を作品番号2とした。公開の場での初演は1821年3月7日、ケルントナートーア劇場で開かれたチャリティー・コンサートにおいてヨハン・ミヒャエル・フォーグルの独唱によって行われ、評判を呼んでフォーグルは二度歌うこととなった。公演後、『魔王』は過去の失敗作の償いの一環として、高貴な位置にいた友人であり、ウィーン宮廷オペラの支配人であったモーリッツ・フォン・ディートリヒシュタイン(ドイツ語版)伯爵に献呈された。また、公開初演から間もない3月21日には一般向けの出版譜が正式に発売され、瞬く間に600部、800グルテンほどが売れてシューベルトの懐は一時的だったにせよ潤うこととなった。 1828年1月16日にライプツィヒにおいて、若きフェリックス・メンデルスゾーンが地元テノール歌手の伴奏者として『魔王』を演奏した際には高くない批評が与えられ、また「『さすらい人』より有名な唯一のシューベルト作品」といった微妙な評価が定着した時期もあったが、『魔王』はシューベルトの名声がそれほど高くなかった時期から、一定の人気を保ち続けている作品の一つに位置している。ゲーテは最晩年、ソプラノ歌手ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=デフリント(英語版)が『魔王』を歌うのを直接聞いたが、その際にゲーテは「私は前にも一度この作品を聴いたことがあるのだが、そのときはぜんぜん気に入らなかった。だが、あなたがいま歌ったように演奏されると、曲全体が一幅の絵となって目に見えるようにみえる」と、過去に低い評価を下したことを悔いた。一方、ジャン・パウルはゲーテとは違って「すばらしい作品」を評価しており、死の床で『魔王』を聴くことを願っていたものの叶わなかった。
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