凋落と観光化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 10:14 UTC 版)
繁栄は長くは続かなかった。もともと砂漠地帯で水が不足していた上、爆発的な人口増加によって突貫工事で建てられた木造の建物が多かったトゥームストーンは、1881年と1882年5月の2度にわたって大火に見まわれた。特に2度目の大火は、トゥームストーンの繁栄の歴史に終止符を打ったと言っても過言ではないものであった。1880年代中盤に入ると、銀鉱は掘り尽くされ、坑内は地下水であふれるようになった。 以後、トゥームストーンは凋落への道をたどり、ゴーストタウンと化した。1929年には南東約45kmに位置し、銅の露天掘りで人口が増えたビズビーに郡庁が移った。しかし、旧コカイズ郡裁判所と隣接する処刑場は博物館として残っている。 ブート・ヒル墓地(Boot Hill Graveyard)は、トゥームストーンが繁栄していた時期に暴力、または病気で亡くなった人たちが眠る墓地である。この墓地はトゥームストーンでリンチにあった、もしくは死刑を受けた者(人違いで死刑になった者もいるとの解説が墓地内にある)の行き先でもあり、死者が履いていたブーツが墓碑(簡素な木製のもの)に掛けられたことから、この名が付いた。現在、墓碑は木を模した金属製に置き換えられているが、当時の雰囲気を充分に味わうことができる。この歴史的な墓場の入り口には土産物屋があり、その店内から入場料を払い入ることになる。 1881年にトゥームストーンで起きた暴力事件の代表とも言え、何度も西部劇映画の舞台になった「OK牧場の決闘」(牧場ではなく「O.K. Corral」といい、牛の囲い)が起きた場所も史跡として残っている。同史跡は見学料を課しているが、市のメインストリートであるフレモント通り(州道80号線)からその大部分を見ることができる。 トゥームストーンはまた、世界最大のバラの茂みが植えられている地でもある。このバラの茂みはギネスブックにも登録されている。1885年に植えられたこのレディー・バンクシア種(Lady Banksia)のバラは、1年を通じて晴天に恵まれたこの地の気候の影響もあって成長状態が良く、宿屋の屋根上約743m²をカバーし、12本の幹を有している。 こういった歴史的なものが数多く存在するトゥームストーンは、1961年に「1870年代から1880年代にかけての辺境の町の町並みが最もよく保存された例」として国の歴史地区に指定された。現在のトゥームストーンの主産業はこの歴史地区を生かした観光である。2005年7月に発表されたCNNの記事によると、トゥームストーンを訪れる観光客の数は年間450,000人に上る。現在の常住人口が約1,500人であるので、人口1人あたり300人の観光客が訪れている計算になる。しかし市内の酒場が24時間営業し、売春宿が立ち並んだ全盛期とは異なり、現在のトゥームストーンは落ち着いたコミュニティで、夜遅くまで開いている店はほとんどない。 しかし過度な観光化は、トゥームストーンの歴史的価値が危機にさらすことでもあった。2004年、アメリカ国立公園局(NPS)はトゥームストーンの歴史地区が「危機状態」にあると宣言し、地元コミュニティに対し、適切なスチュワードシップ制による保全を求めた。国立公園局が不適切と指摘した点には次のようなものがある。 新しく建てられた建物に対し「歴史的」な日付の記載がなされている。 新しく建てられた建物と歴史的建造物との区別が困難である。 歴史的建造物に対し、不適切な建材を用いている。 歴史的建造物を修復するのではなく、新たに建て替えている。 憶測による、十分な根拠のない建材で建て替えられ、建物の歴史的側面が失われている。 既存の歴史的建造物を大幅に増築したり、敷地内に新しい建物を建てたりしている。 歴史的な看板を囲む点滅灯の使用など、看板にイルミネーションを用いている。 トゥームストーンに存在しなかったはずの建築様式で建物が建てられている。 また、市内の道が舗装されたことも、歴史的な町並みの保存に反するものであるとされた。 これらの問題点の対策として、2006年1月現在、トゥームストーン修復委員会(Tombstone Restoration Committee)は市内の歴史的建造物の修復に尽力している。市内の通りに施された舗装は剥がされ、再び「歴史的」な埃道に戻った。
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