凋落・過渡期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 04:28 UTC 版)
「日立製作所本社サッカー部」の記事における「凋落・過渡期」の解説
一方で、夜間も練習可能な専用グラウンドを確保できるようになったのは、高橋が本格的にチーム強化を図るようになった1970年代に入ってからである。なお、この時期でも選手は社業が終わってからの練習開始であった。ライバルの古河や三菱は既に就業時間内でも練習可能な体制を確保していたことから、この遅れは顕著であった。1980年代に入っても、選手の給料体系にサッカーに従事することで得られるインセンティブが組み込まれておらず、1980年代後半にマネージャーとしてチームに復帰した久米一正は、これらの改革から着手しなければならなかった。 この事は古河や三菱に比べて日立が最もアマチュアリズムに対して保守的であったことを示している。高橋が定年によりチームを離れてから成績は徐々に下降線を辿り、プロリーグ化への移行が具体的に検討され始めた1980年代末から1990年代初めには、日立はJSL1部と2部の間を往来していた。日立は御三家の中で唯一、1993年のJリーグ開幕シーズンからの参入を果たす事が出来なかった。
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