健全化と様式美
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藤圭子ブームの翌年、1971年に小柳ルミ子が「わたしの城下町」でデビュー。小柳の歌は音の運びは明らかに演歌であったが、その内容は絵葉書のような「日本情緒」であり、暗さやアウトローなどとは無縁であった。また、1973年には「艶歌」ジャンル確立以前から活動している春日八郎が自身のヒット曲と過去のカバー曲を交えたリサイタル「演歌とはなんだろう」で文化庁芸術芸能部門大賞を受賞する。演歌の歴史の「古さ」が公に認められるとともに、当初究極のアウトローから始まった演歌が早くも国民の文化財という主流派の立ち位置を得て、その先鋭性を奪われてしまう。 一方、演歌の特徴的な形式のみが切り離され、この要素を商業的に消費する流れが続いた。1972年にはコミックバンドのぴんからトリオが歌う「女のみち」が大ヒット。過剰にこぶしを利かせ、劇画的ともいえるほどに強調した。翌1973年には殿さまキングス「なみだの操」がやはり様式化した歌調でヒットする。1974年のさくらと一郎「昭和枯れすゝき」は大正期の船頭小唄にフォークの要素を加え、男女の悲恋を強調した。 1970年代後半の演歌は、五木ひろしと八代亜紀が知名度と人気を誇る。両者ともに、長い下積みと再デビューという物語が付加されていた。なお、その曲調はともにモダンなものであった。 1977年にはカラオケが登場する。当時のカラオケは夜の盛り場で用いられることが多く、必然的に演歌が多くかけられた。丁度この頃のヒット曲は都はるみ「北の宿から」や石川さゆり「津軽海峡・冬景色」で、演歌の舞台には徐々に北方の雪景色が多数を占めるようになる。しかし若い世代の間では、ぴんからトリオなどの過剰な模倣(いわゆる「ド演歌」)の後は艶歌人気は続かなかった。1978年は艶歌のヒット作が出ず、同年の「第29回NHK紅白歌合戦」のトリはポップス系の山口百恵と沢田研二であった。1979年にはカラオケ酒場を主な舞台とした「演歌復興」が喧伝され、小林幸子「おもいで酒」、渥美二郎「夢追い酒」などの「酒」が演歌の重要な要素に加わる。 テレビ番組では、1981年から「NHK歌謡ホール」がスタート。「演歌歌手」をメインにした番組がスタートしたが、ヒット曲よりも過去のスタンダードナンバーを中心にした構成となった(後継番組は現在まで継続)。更に、演歌が「カラオケで歌う歌」となったため、歌詞や曲調、歌唱技法が均質化してゆき、1980年代からどれも似通った作品になってゆく。石川さゆり「天城越え」(1986年)は、この潮流に反して「素人は歌えない難しい歌」というコンセプトでつくられた。やがて、主婦をターゲットにしたカラオケ教室が流行することによって、当初は「明るい家庭」とは対極的な立ち位置にあった演歌の熱心な支持者が主婦を中心とする中高年女性になるという現象が起こる。これに対応して、川中美幸「ふたり酒」(1980年)や三船和子「だんな様」(1983年)など、「夫婦」が演歌のテーマに加わる。ところが1980年代後半になると、カラオケボックスの普及によって若者がカラオケを利用するようになり、演歌の占めるシェアはますます狭まっていった。
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