健全な自己愛 vs 病的な自己愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/11 08:18 UTC 版)
「オットー・カーンバーグ」の記事における「健全な自己愛 vs 病的な自己愛」の解説
コフートとカーンバーグ間の主たる議論の1つは健全と病的な自己愛に関するものだ。前述のように、コフートは自己愛性人格が発達停止に苦しめられていると仮定する。特に、彼はこのタイプの人格は、親の環境下での子供時代の発達においてなお満足を与えられなかったところの、順応性のある自己愛的な希望や要求や対象を、映し出していると仮定する。ここにおいて、誇大自己は健全な自己と成るべき見込みの原初的形式以上のものではない。このことが起こらなかった時に病的自己愛が出現するのだ。病的自己愛に対する彼の説明では、どのようにこの障害が発達するかの原因を規定するためにリビドー的力や備給に注意が支払われている。彼にとってこの攻撃衝動はリビドー衝動に関して第2番目に重要なものなのであり、凡庸な攻撃性と自己愛的憤怒を区別すべきである理由なのだ。前者は、彼によるなら、現実的なゴールに向かう場合の妨害物を消すための適応であるのに対し、後者は自己愛的な傷に対する強力な反応である。カーンバーグは、しかしながら、コフートの着想を攻撃性の力を重視しないものだと見なしている。彼は、自己愛的振る舞いが攻撃衝動がその中心的役割を担うような病的発達の結果であると提案することによって、フロイト派の概念化をより支持する。彼は、自己愛は全体に見てリビドー衝動から分けて考えることが出来ない強い攻撃衝動を含んでいると述べている。「各自の内的対象関係の発達をリビドー的・攻撃的衝動の双方の肢に関係づけることなしに、健全あるいは病的な自己愛の変遷を学ぶことは出来ない」と彼が言うように。
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