会社設立から路線開業まで
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「碧海電気鉄道」の記事における「会社設立から路線開業まで」の解説
愛知電気鉄道(愛電)が神宮前 - 吉田(豊橋)間を結ぶ高速鉄道路線である豊橋線の敷設計画を推進していた1922年(大正11年)当時、豊橋線の経路となった碧海郡安城町の地元有力者によって、安城町より明治村米津を経由して幡豆郡西尾町に至る電気鉄道路線の敷設計画が持ち上がった。幡豆郡西尾町には、のちに愛電へ吸収合併されることとなる西尾鉄道の路線が存在していたが、同社路線は輸送単位が小さい上に運行速度の遅い762 mm軌間(特殊狭軌)の蒸気鉄道であったため、地元においては名古屋方面への移動がより便利となる電気鉄道の敷設が望まれていた。 地元有力者と愛電との折衝の末、愛電は新路線の運営事業者設立に際して資本金の50 %を出資すること、起点駅を豊橋線の宇頭駅とすることなどについて合意し、1923年(大正12年)5月に碧海郡矢作町より明治村米津に至る鉄道路線の敷設が免許された。その後、起点駅を宇頭から今村へ変更したことや、発行株式の引き受けが難航したことなど事務手続き上の都合で会社設立が遅れ、免許交付より2年後の1925年(大正14年)5月15日に会社設立総会が開催された。社名は碧海電気鉄道とし、資本金100万円のうち50万円を愛電が出資する、愛電の子会社として発足した。社長は愛電取締役社長の藍川清成が兼務し、本社も愛電本社内に設置された。愛電の直営とせず別会社したのは、そうすることで政府補助金を引き出す狙いがあった。 敷設工事は親会社である愛電が施工し、1926年(大正15年)7月1日に今村 - 米津間11.6 kmが開通した。軌間1,067 mm(狭軌)および直流1,500 Vの架線電圧という規格は愛電豊橋線と同一であり、軌条(レール)も同じく37 kgの重軌条を使用した。また、碧海電気鉄道線は全区間単線で敷設されたが、将来の複線化を見越して複線分の敷地が確保された。
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会社設立から路線開業まで
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「九州鉄道 (2代)」の記事における「会社設立から路線開業まで」の解説
福岡の路面電車福博電車(後の西鉄福岡市内線の一部)を運営する九州電灯鉄道の経営陣、伊丹弥太郎・松永安左エ門・田中徳次郎・山口恒太郎らが発起人となり、1914年(大正3年)に福岡 - 二日市間の特許を得て、1915年(大正4年)に筑紫電気軌道(ちくしでんききどう)株式会社の名で設立された。当初は社名が示すように福岡市と二日市町(現・筑紫野市)の間に軌道法による直流600Vの電気鉄道を敷設し、二日市で既存の太宰府軌道(1902年(明治35年)開業、現在の西鉄太宰府線)に連絡して太宰府天満宮への参詣客を輸送することを目的として設立されたのであった。 特許・会社設立と同時期に開戦した第一次世界大戦の影響により資材価格が高騰し、計画は一時棚上げとなるが、大戦終結後の1919年(大正8年)には二日市から久留米市までの特許を取得した。使用電圧は1922年(大正11年)2月に600Vから1200Vに変更され、さらに翌3月には1500Vに再変更されている。二日市以南の特許を得たことから1922年には社名を九州鉄道に変更している。 用地買収は1921年(大正10年)春から1923年(大正12年)12月にかけて実施し、約30万坪を約380万円で取得した。工事は1922年9月16日に着工し、1924年(大正13年)に福岡(現・西鉄福岡(天神)) - 久留米(現・西鉄久留米)間が一度に開通している。
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