会社設立から路線免許取得まで
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「東京地下鉄道」の記事における「会社設立から路線免許取得まで」の解説
1917年(大正6年)7月18日 - 東京軽便地下鉄道名義で高輪南町(品川) - 浅草公園広小路間、車坂 - 南千住町間の免許出願。この出願路線はあくまで第一期計画で、これとは別に第二期計画、第三期計画も出願書類には予定線として記されており、東京軽便地下鉄道単独で東京市街地に地下鉄路線網を建設する構想であった。しかしこの出願内容の隙を突いて、1918年11月に武蔵電気鉄道(のちの東京横浜電鉄)が、1919年1月に東京高速鉄道(初代、のちの小田原急行鉄道)が、1919年2月に三井財閥系の東京鉄道が地下鉄路線の免許出願を行った。 1919年(大正8年)11月17日 - 東京軽便地下鉄道が、高輪南町 - 浅草公園広小路間、車坂 - 南千住町間の免許取得。 1920年(大正9年)1月14日 - 東京市告示第2号で「東京市区改正設計高速鉄道」7路線が位置づけられる。 東京軽便地下鉄道の免許路線は追認されたが、武蔵電気鉄道、東京高速鉄道(初代)、東京鉄道にも3月17日に免許が交付された。これにより東京軽便地下鉄道単独による地下鉄路線網構想は阻まれた。 この「東京市区改正設計高速鉄道」における2号線は、渋谷 - 新橋 - 浅草・南千住間であり、東京軽便地下鉄道が新橋 - 浅草・南千住間、武蔵電気鉄道が渋谷 - 有楽町間を割り当てられていた。武蔵電気鉄道による地下鉄建設は実現しなかったが、後述の東京高速鉄道(2代目)に武蔵電気鉄道改め東京横浜電鉄の五島慶太が参加する形で、東京軽便地下鉄道改め東京地下鉄道の前に立ちはだかることになる。 8月29日 - 東京地下鉄道設立。東京軽便地下鉄道名義で所持していた路線免許を引き継ぐ。
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