企画成立経緯
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「ボクサー (1977年の映画)」の記事における「企画成立経緯」の解説
菅原文太10年越しの企画で、具体的に東映に企画を提出していたが埋もれたままになっていたといわれる。岡田茂東映社長が菅原の企画の熱意に応じた。 1977年8月10日に銀座東急ホテルであった製作会見で、岡田東映社長から企画成立経緯について以下の説明があった。「文太、小野田(啓・宣伝部長)、天尾(完次・企画部長)らが『ロッキー』を見て感心し、ぜひ日本版をやりたいと企画を持って来たが、日本ではボクシング映画は当たったためしがなく拒否権を発動していた。ところが営業部を抱き込んだり、主演に人気ナンバー1の清水クンを担ぎ出したり、ボクシング界の歴代チャンピオンを引き出したり、日本ボクシング界が全面協力するということで、何としても、という彼らの熱意を買った。文太の執念に負けたということです。この作品は東映の選挙で言えば全国的な大作路線への方向転換の第二作であり、責任を持ってやれと言ってある。監督に寺山君というのは私にとっては想像を絶する起用だが、どんなものが出来るか楽しみにしている」。 実写のボクシング映画は1960年代に特に日活がよく作っていたが、日本映画の斜陽もあり、日本のメジャー会社では長い間、実写のボクシング映画は作られておらず、よく企画が通ったといわれた。当時はスポーツ映画は当たらないというのが日本映画では定説だったため、東映の実験的な試みは注目された。そのため、当時の邦画では久しぶりのボクシング映画となった。 岡田社長は当初、映画化をなかなか許さなかったが、このタイミングで企画が通ったのは、"日本版『ロッキー』"と当時盛んにいわれたように、1977年4月に日本でも公開された『ロッキー』大ヒットの影響が大きかったと見られ、『ロッキー』公開直後の映画誌に、菅原が「『いやあ『ロッキー』って映画すごいね。無名の俳優がこれ1本でアカデミーにノミネートされたっていうじゃないの。おれも40歳を過ぎたけど、やるとなれば今年だね。秋にやるって会社と約束も取り付けたし..』 菅原文太、近ごろごきげんである。念願のボクシング映画実現が近づいたからだ」という記事が載る。ただ菅原の企画提出は『ロッキー』より大分前なので、(実現の経緯を別にすれば)『ロッキー』の便乗映画ではない。1974年から1976年にかけて『ローラーボール』や『ロンゲスト・ヤード』『がんばれ!ベアーズ』などのスポーツ映画がアメリカでヒットし、岡田社長は「アメリカ映画で流行ったものは、必ず何ヶ月後に日本で流行る」という持論であったため、その波が日本に押し寄せて来るのを見込み、また1975年夏の『トラック野郎・御意見無用』、1976年の正月映画『トラック野郎・爆走一番星』が連続して大当たりを取ったことから、女性・子供・家族連れの映画館への吸収を狙い、1976年上半期に、"健全喜劇・スポーツ映画路線"を敷いたことがあり、失敗して撤退したが、『ボクサー』でスポーツ映画の再挑戦を企図したこと、また「トラック野郎シリーズ」での菅原の東映への貢献や、実録映画の行き詰まり、清水健太郎が女性に圧倒的に人気があったことから、清水を東映で映画スターとして売り出したい(詳細は後述)、女性層にアピールしていきたいという考えもあり、企画が通ったとされる。 1977年夏に岡田東映社長が積極的に外部資本と提携した映画の製作方針を打ち出し、8月、『宇宙戦艦ヤマト』の配給、10月、『人間の証明』で角川映画を初配給、12月、東映セントラルフィルムを設立するなど、1977年の東映は転換期だった。岡田は1977年に3本、1978年には年間6本程度の大作を製作したいとの方針を発表し、大作ロングラン体制の確立を目指したため、1977年に東映の本体(東映東京・京都撮影所)で製作した劇映画は、本作も含め31本あったが、1978年は僅か12本に減った。菅原が「やるとなれば今年」と話していたように、この年でなければ『ボクサー』は製作されなかったかもしれない。企画者も兼ねる菅原は何としてもヒットさせなければ面子に関わる映画となった。
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