他の仏教建築
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斜面や崖に張り出して造られ、床の一部が長い柱で支えられた建物を懸造と呼び、江戸時代初期の清水寺本堂が有名であるが、この特異な形式が生まれるにあたっては神仏習合、なかでも山岳仏教より生まれた修験道の影響が甚大である。院政期にあっては、三仏寺投入堂がことに著名である。 蓮華王院本堂(通称三十三間堂)は横に長く、千一体の千手観音像を安置したもので、阿弥陀堂ではないが大型化した九躰堂タイプと見なしてよい。 三仏寺奥院(鳥取県三朝町、国宝) 三仏寺投入堂ないし三仏寺蔵王堂として知られる。天仁元年(1108年)ころに建造された天台宗三仏寺の奥の院にあたり、断崖のくぼみのなかに足場を組んだ懸造の小規模な堂である。中国山地につらなる三徳山山腹の岩窟内に位置し、従前より修験道の祖とされる役小角(役の行者)が、空中から建築資材を投げ入れて造ったと伝承されてきたため、「投入堂」の呼称がある。堂内には修験の生んだ日本独自の尊像である蔵王権現を祀っている。 蓮華王院本堂(三十三間堂)(京都市東山区、国宝) 平治の乱ののち、平清盛は後白河上皇の信任を得て、法住寺御所の近くに蓮華王院を造営し、その本堂(三十三間堂)に千一体の千手観音像を安置するとともに宝蔵には古今東西の宝物を納めた。ここには、多くの絵巻物の制作や今様の蒐集など芸能の中心に立ち続けた後白河法皇の膨大なコレクションも納められていた。 當麻寺本堂(奈良県葛城市、国宝) 當麻寺曼荼羅堂とも。寄棟造、本瓦葺。棟木の墨書銘から永暦2年(1161年)の建造であることが判明した(ただし、それ以前の前身堂の部材も再用されている)。『当麻曼荼羅』を祀っている。 鶴林寺太子堂(兵庫県加古川市、国宝) 鶴林寺は聖徳太子創建と伝えられる天台宗寺院であり、太子堂は当初法華堂として建造された。宝形造の檜皮葺で、屋根板の墨書より天永3年(1112年)の建造であることが判明した。念仏三昧を修する常行堂も平安時代末期の建造とみられ、重要文化財に指定されている。 平安時代の塔建築では、最初に宝塔や大塔といった新形式の導入がみられたが、現存する遺構は層塔形式のみである。層塔建築では、従来は心柱を地下もしくは地上に据えていたものが、浄瑠璃寺三重塔・一乗寺三重塔以降の三重塔では、心柱はすべて初重天井上の梁から立つようになる。これは初重の内部空間を広く使うためと考えられる。 浄瑠璃寺三重塔(京都府木津川市、国宝) 浄瑠璃寺は、山城・大和の境をなす山中にあり、上述「九体阿弥陀堂」で知られている。三重塔は治承2年(1178年)に京都の一条大宮から現在地に移されたもので、三間三重塔婆、檜皮葺で、本堂と池をはさんで建っている。初層内は扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図などが装飾文様とともに壁面を埋めている。 一乗寺三重塔(兵庫県加西市、国宝) 一乗寺は播磨国北東の山間部に所在し、多くの堂塔が重要文化財に指定されている。三重塔は、頂部の伏鉢(ふくばち)の銘より承安元年(1171年)の建造であることが判明した。心柱が初層の天井裏で止まり、板床となるその上には中央方一間に仏壇を構えており、四面に縁をめぐらした平面の形状および構造は鎌倉期以降の三間仏堂を思わせる。これは、平安中期までにはみられなかった特色である。
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