二代「ヨークタウン」
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「ジョゼフ・J・クラーク」の記事における「二代「ヨークタウン」」の解説
ミッドウェー海戦ののち、クラークは大佐に昇進して9月24日に護衛空母「スワニー」 (USS Suwannee, CVE-27) の初代艦長となり、トーチ作戦をはじめとする北アフリカ戦線で活躍。1943年4月4日からは先代の艦名を襲名したエセックス級航空母艦の「ヨークタウン」 (USS Yorktown, CV-10) 艦長となって4月15日から行動を開始する。「ヨークタウン」をはじめとする新鋭空母は慣熟訓練ののち、新編成の空母任務部隊に配属されていく。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)は8月5日と6日に、新鋭空母を中心とする第5艦隊司令長官にレイモンド・スプルーアンス中将(アナポリス1907年組)、空母任務部隊司令官にチャールズ・A・パウナル少将(アナポリス1910年組)を充てることを公表。パウナルはニミッツから航空の「経験の深い」人物として評価され、クラークの「ヨークタウン」を旗艦としたが、やがてクラークはパウナルのやり方に噛み付くこととなった。 パウナルの空母任務部隊は1943年9月初頭の南鳥島攻撃を皮切りに12月にいたるまでの間、ギルバート諸島、ウェーク島およびクェゼリン環礁を攻撃して一定の戦果を挙げ、また空母任務部隊の運用方法に関するノウハウも積み上げていったが、この間、クラークはパウナルが採った行動に対して不満しか抱かなかった。以下はその一例である。 南鳥島攻撃の際、対空砲火で撃墜された機のクルーが漂流しているとの報告を受けたクラークは、パウナルにその救助を進言するも、パウナルは一定の捜索を終えると潜水艦に捜索任務を丸投げし、攻撃隊の収容を全て終えて即座に南鳥島近海から離れた。 パウナルは操艦や艦隊運動に口やかましく、また計画針路は断固として修正させなかった。それがために事故を起こしかけた艦があった。 パウナルは空母任務部隊の指揮を引き受けたことを後悔する発言を繰り返した。 タラワ攻撃最終日、パウナルは自分が戦死した際の覚書を、以前からの不文律があるにもかかわらず作成させた。 クェゼリン攻撃で、第一撃をかけて攻撃隊を収容し終わるや否や、パウナルは「部隊を敵の真っ只中にとどめておくのは危険」とばかりにさっさと東方へ引き上げさせた。しかし、攻撃隊の報告ではロイ=ナムル島の航空基地に無傷の日本機がいることを確認していた。 クラークは不満組の代表として、一連の不満をパウナル自身やスプルーアンス以外に対して片っ端から訴えに出た。具体的には、不満の届け先はタワーズ、ニミッツ、キング、そしてフランクリン・ルーズベルト大統領であった。クェゼリン攻撃での事項に関してはタワーズも不満を感じており、ニミッツにパウナルを更迭してはどうかと進言していた。やがてニミッツ、タワーズ、太平洋艦隊参謀長「ソック」チャールズ・マックモリス少将(アナポリス1912年組)、そしてクラークの同期で、当時は太平洋艦隊航空参謀のシャーマンによる四者会談を経て、スプルーアンスやウィリス・A・リー少将(アナポリス1908年組)らの擁護論は顧みられることなくパウナルの更迭と、後任にミッチャーを充てることが決定した。しかし、クラークが槍玉に挙げたパウナルの行為のうち、潜水艦によるパイロット救助任務は以降の作戦で欠かせないものとなり、海軍の作戦はもとよりアメリカ陸軍航空軍にも適用され、例えば日本本土空襲を行うB-29も、その恩恵にあずかった。そもそも、パウナルの後任ミッチャーが、この任務をスタンダードにしていった。そういったパウナルの功績は無視され、パウナルは後方の任務に移って行った。パウナル更迭運動を主導して「航空玄人」ミッチャーを空母任務部隊司令官に就任させるきっかけを作ったクラークは1944年2月10日付で少将に昇進し、「ヨークタウン」を退艦した。
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